フーコーは、真理について語り、真理に近づく、個人の真理、真理の言表などと用例は多いが真理や真実は代数のxのように空白にして代入できる、あるいは全体を表す方程式によってxが決まるかのようにしてある。
そして、明示的にそれを強調しないところも大変わかりにくいのであるが、それが魅力でもあるのだろうと思う。
さて、2巻「快楽の活用」3巻「自己への配慮」での真理についても真理は頻出するが真理が何を意味するのかわからないので具体的に勘げ始めることができない箇所が多い。そこで対になるところを見つけてそれを元に読むとわかりやすい、少なくとも検討を始められるので紹介しよう。もちろん、見つけたところは分かりやすく書かれているだけで、まだ他に代入可能な真理があるのかもしれない。
まず2巻「快楽の活用」5章「真の恋」(新潮社 田村先生訳)に核心のテキストはある
せっかくなので引用部分のプラトンを読もう
プラトンですので肉体と魂の二元論でそれは容易に分離されて(笑)魂には翼が生えて飛び回ります。その時、真実の恋がそれを可能にしてくれるということですね。今思い出しましたが魂の分離についてはアベラールも引用していますね。
恋の力によって手に手をとって起きるという年上の男と若い男の魂の真剣な恋です。しかも肉体関係があっても罰せられないという。男女二人の恋の表現では源氏物語でしたら「連理の枝」「比翼の鳥」に該当するでしょうか。この源氏物語のたとえでも空に浮いているところは共通しているように思います。洋の東西を問わず「自由」を感じる比喩なのでしょうか。
それでは3巻「自己への配慮」に移りましょう。該当箇所は第2章「自己の陶冶」の最終部分です。田村先生訳ではpp90です。ここではフランス語オリジナル版(ガリマールpp85)をChatGPTに学術的かつ哲学的に訳してくれと頼んだものを示そう。
さてこのGPTが訳した「快楽」は田村先生訳を見てみると享受としている:(この統治支配は、自己への関係が単に支配形式のみならず、欲望のない、しかも不安故障のない享受の形式をとる一つの経験へと拡がっている。)おそらくプラジールを快楽に当てているので快楽は避けたのだろう。そういう意味でChatGPTは安易であるが、このChatGPTのある意味「間違い」によって私はこの章全体が急に一つにまとまった。ChatGPTに「jouissance」について釈明させてみよう
ということでフーコーのいう真理についてフーコーは歴史的な推移についてははっきり述べてませんが、ギリシア時代の真理は魂が肉体を離れ真理への旅に出て美だとか善だとかを見てまわるような経験を愛人と、ローマ帝政期にはそれは自己へ向かい、他者を師とするももはや愛人関係でなく、自己に試練を与え自己の真理を成長させ成長した自己に満足することを享受する、ということに変容しているということになります。
わかったようなわからないような。(バッハのマタイ受難曲を小澤征爾・サイトウキネンオーケストラの録音を聴きながら)