古典ギリシア時代とローマ帝政期の「真理」の違いーフーコー「性の歴史」2・3巻において

フーコーは、真理について語り、真理に近づく、個人の真理、真理の言表などと用例は多いが真理や真実は代数のxのように空白にして代入できる、あるいは全体を表す方程式によってxが決まるかのようにしてある。
 そして、明示的にそれを強調しないところも大変わかりにくいのであるが、それが魅力でもあるのだろうと思う。
 さて、2巻「快楽の活用」3巻「自己への配慮」での真理についても真理は頻出するが真理が何を意味するのかわからないので具体的に勘げ始めることができない箇所が多い。そこで対になるところを見つけてそれを元に読むとわかりやすい、少なくとも検討を始められるので紹介しよう。もちろん、見つけたところは分かりやすく書かれているだけで、まだ他に代入可能な真理があるのかもしれない。
 まず2巻「快楽の活用」5章「真の恋」(新潮社 田村先生訳)に核心のテキストはある

 ギリシャ人の場合には反対に、真理への接近と性における厳格さとの相互的な関連にかんする省察は、とくに若者愛をめぐって展開されてきたと思われる。(pp292)
 『パイドロス』のなかでソクラテス自身が明らかに述べているのは、魂が天空を越えて何を見たかを充分強く思い出す場合、魂が力強く導かれて、不純な欲望のせいで躍動する歩みをぐらつかされることがない場合、魂は、恋される客体が美しさそのものの反映や模写を内部にもつからこそ、どんなにその客体に愛着をいだくか、という点である。(pp302)
 プラトンに特有なものとは、この分割[と] ではなくて、肉体への恋の下位性を彼が確証するその仕方である。実際、彼はその下位性の根拠を、恋される若者の品位や彼にはらうべき敬意には置かずに、恋する男自身のなかで、自分の恋の存在と形式とを規定するもの(彼の不死への欲求、純粋さにおける美への彼の渇望、天空を越えて彼が見たものについての記憶)に置いている。しかも彼は(そしてこの点では『饗宴』も『パイドロス』もまったく疑問の余地がない)、悪としての肉体への恋と、善としての魂への恋とのあいだに、鮮明で決定的で乗越えられない分割線は一本も引かないのである。(pp303)
 『パイドロス』は、屈しなかった魂の勇気と完璧さに賛歌をささげる一方、知恵の愛によりも名誉にこだわる生活を送るあいだに不意打ちをくらってしまった魂、熱狂のあまり、たまたま「例のことをやってしまう」こともあった魂を懲罰にかけたりはしない。なるほどこの人々は、この世での生命が終わって自分の魂が自分の肉体から離れるとき、翼を持っていないのである(「自己を統御し」つづけた人々に起こる事態との、これは相違である)、したがって最高の高みへ行くことはかなうまい。しかし彼らとても地下の旅を押しつけられはしないであろう。互いに連れだって、この二人の恋する者は天空の下を旅をして、ついには、今度は「二人の恋のおかげで」翼を手に入れるだろう。プラトンにとって、真の恋を本質的に特徴づけるのは、(中略) 真の恋は客体の外観を通しての、真理との関係だからである。(pp303-304)

せっかくなので引用部分のプラトンを読もう

そして、その生涯を終えるにあたっては、翼なしに、しかし翼を生じようとする衝動をもちながら、肉体をはなれて行く。
したがって、彼らがかちとる恋の狂気の褒賞は、けっして小さなものではないことになる。なぜならば、すでに天界の道行きの一歩を踏み出した者たちに対してさだめられた掟は、もはや暗い世界におもむいて、地の下の旅路を行くことではなく、明るい生を送り、手に手をとって道を行きつつ幸多き時をすごすこと、そして時きたれば、恋の力によって、相ともに翼を生ずることなのだから。

プラトン饗宴(岩波文庫pp85)

プラトンですので肉体と魂の二元論でそれは容易に分離されて(笑)魂には翼が生えて飛び回ります。その時、真実の恋がそれを可能にしてくれるということですね。今思い出しましたが魂の分離についてはアベラールも引用していますね。

Quasi enim ad præsepe Domini anima nostra ligatur, sacræ se medita-tionis in eo quadam ruminatione reficiens, a quo quidem præsepi solvitur,atque huc et illuc toto mundo per cogitationes discurrit, nisi eam clausurataciturnitatis retineat.
私たちの魂は、まるで主の飼い葉桶に縛られており、聖なる黙想を通じてその中である種の深い思索に耽り、その飼い葉桶から解き放たれ思考が世界中を縦横無尽にさまようことがあります。(アベラールとエロイーズ 畠中訳 岩波文庫p245)

https://note.com/astrolabe_jp/n/nc0ac77b5adf0

恋の力によって手に手をとって起きるという年上の男と若い男の魂の真剣な恋です。しかも肉体関係があっても罰せられないという。男女二人の恋の表現では源氏物語でしたら「連理の枝」「比翼の鳥」に該当するでしょうか。この源氏物語のたとえでも空に浮いているところは共通しているように思います。洋の東西を問わず「自由」を感じる比喩なのでしょうか。
 それでは3巻「自己への配慮」に移りましょう。該当箇所は第2章「自己の陶冶」の最終部分です。田村先生訳ではpp90です。ここではフランス語オリジナル版(ガリマールpp85)をChatGPTに学術的かつ哲学的に訳してくれと頼んだものを示そう。

性道徳は今なお、個人がある種の生き方の技法に従うことを要求する。この技法は、存在の美学的および倫理的基準を定義するものだ。しかし、その技法はますます自然や理性という普遍的な原理に準拠するようになり、これらの原理は、個人の地位や条件にかかわらず、すべての人に同一の服従を要求する。
 さらに、自己に対して課されるべき仕事の定義も、自己文化(culture de soi)を通じて一定の変容を受ける。必要不可欠な禁欲や節制の修練(askēsis)を通じて、自己認識の占める位置がより重要になっていく。つまり、特定の訓練において自分自身を試し、検討し、制御するという課題が、主体が道徳的存在となる際に、自己が何であるか、何をしているか、そして何が可能であるかの「真理」の問いを中心に据える。
 最終的に、こうした形成の到達点は、依然として主体の自己支配(souveraineté)によって定義される。しかし、この自己支配は、自己との関係が単なる支配ではなく、欲望や動揺のない「快楽(jouissance)」という形態を取るような経験へと拡張される。

さてこのGPTが訳した「快楽」は田村先生訳を見てみると享受としている:(この統治支配は、自己への関係が単に支配形式のみならず、欲望のない、しかも不安故障のない享受の形式をとる一つの経験へと拡がっている。)おそらくプラジールを快楽に当てているので快楽は避けたのだろう。そういう意味でChatGPTは安易であるが、このChatGPTのある意味「間違い」によって私はこの章全体が急に一つにまとまった。ChatGPTに「jouissance」について釈明させてみよう

「jouissance」はフランス語で「喜び」「享受」や「快楽」を意味しますが、文脈によっては非常に哲学的または心理学的な意味合いを持ちます。この文では、「jouissance sans désir et sans trouble(欲望も混乱も伴わない享受)」と述べられており、自己との関係が単なる「支配」を超えて、より深い満足や快楽の状態に広がることを指しています。
特にフランスの哲学や精神分析(例: ジャック・ラカン)では、「jouissance」は単なる快楽以上に複雑な概念として使われることも多く、個人の欲望や制約を超えたある種の境地を表します。この文脈でも、そのような深い意味合いを持つ言葉として用いられているようです。

ということでフーコーのいう真理についてフーコーは歴史的な推移についてははっきり述べてませんが、ギリシア時代の真理は魂が肉体を離れ真理への旅に出て美だとか善だとかを見てまわるような経験を愛人と、ローマ帝政期にはそれは自己へ向かい、他者を師とするももはや愛人関係でなく、自己に試練を与え自己の真理を成長させ成長した自己に満足することを享受する、ということに変容しているということになります。
 わかったようなわからないような。(バッハのマタイ受難曲を小澤征爾・サイトウキネンオーケストラの録音を聴きながら)

いいなと思ったら応援しよう!