前回ギリシアで、テキスト化された「自己への配慮」「自己自身を知る」について、キリスト教の進展とともに「自己を配慮」して「救済」するには「自己を放棄」し自己へ配慮した実践ができないという逆説に陥ってしまった。そのため、自己への配慮という概念は混乱して消え去り、「自己自身を知る」という概念のみが残ってしまった、とフーコーは「自己への配慮」が注目されてこなかった理由を説明していることを紹介した。(フーコーコレクション5巻 自由の実践としての自己への配慮pp310、自己の技法pp357から再構成)フーコーによると「自己への配慮」が哲学に復活するのはデカルトからでカントの「啓蒙とは何か」で再び哲学の大きな要素となったと考えている(フーコー講義「自己と他者の統治」)。
フーコーはどうやらデカルトの「省察」に「自己への配慮」の復活の鏑矢を見ている。しかしその見取り図は途切れている。今回はそちらを考えてみたい。
まず、デカルト以前の霊性、魂はどのように考えていただろうかフーコーからひいいてみる。
このようであった。このような状況で真理との関わりはどのようだったか
であると述べている。
このような状況の中デカルトがとった行動は・・・・
ではこのようなデカルトの逆転の特徴はどのようなものでしょうか。
このようなデカルトの考え方について、中世の哲学は進学の婢女の状態からどのように近代にに近代哲学が打ち立てられたか下記のようにフーコーはパレーシアを分析する中、下記のスケッチを提示している。
ではどのようにデカルトにパレーシアが伝わったか、それはフーコーは明らかにしていない。
パレーシアが近代に伝わったのはフーコーはキュニコス主義を経由した考え方、「態度および生き方」であるとしている。キリスト教宗教界、革命家、ボードレールなどの芸術家を挙げている。(フーコー講義録 真理の勇気 p223以降)
デカルトが中世神学から一抜けた、神学はオワコンと哲学を抜け出させた、とするなら、それはデカルト以前の進学にどのように準備されていたのか。その肉付けがなく、フーコーがそこまでやってくれなかったのが残念である。フーコーの最後の講義は5世紀頃までのキリスト教世界のパレーシアの分析である。このテキスト分析の精度でデカルト前をしなくてはいけない。
一方、デカルトは省察では神の存在証明を書いているのでとてもそうは見えないのだが、ガリレオの異端裁判の行方をみて、自分の安全を担保したらしい(出典失念wikipediaか)。安全だと見計らい論文を出版したという話も聞くが、それなりに自分の革新性や宗教界への反対的立場を理解していたということになる。デカルトへモンテニューやパンセから流れ込んだものがあることはフーコーとラビノウの対話にも出てくるが下記に示すように引用先があるほどの詳しい話ではない。
というわけでデカルトの重要性はわかった。後年フッサール、ハイデッガーがこだわるわけである。それではカントはいかに。
はじめに書いたように、この分析はフーコー講義の「自己と他者の統治」のはじめの二つの講義に結実している。