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水上におけるプロレスまとめ Vol.2

冒頭は天気の話でもして皆さまのご機嫌をうかがって参りましょう。
もうそろそろ夏と言ってもいい頃合いになってしまったんですが、3月を過ぎてから肌寒い日になると必ず、昔にダウンタウンの松ちゃんが言っていた「3月は寒いねん!」を思い起こします。テレビに向かって「そうそう!さすが松ちゃん!」と唸り、胸に響いたこの記憶を忘れることはないでしょう。90年代の松ちゃんによる、怒りは当然、ネガティブな要素も何もかもブルドーザーのように森羅万象全てを笑いに変えていくこのサマに、影響を受けなかったロストジェネレーション世代はいないのでは。
そういえば?と思い、YouTubeを開いたらありましたよ、その動画が。ホントなんでも見れてしまう。いつ頃かは分からんけど、ガキ使のトークで「3月なのにまだ寒い」という世間の常套句に対し、そもそも毎年3月は寒いだろ、と松ちゃんがブチギレかますわけです。これ以降しばらく「3月なのにまだ寒い」と言う奴は減った気がします。
この放送から何年も経ち、段々とダウンタウン影響下にない新世代が増えてきます。死んでは生まれ、死んでは生まれ、生死は平等なので当然ですね。人間は進化しないのかな?と思ったぐらいだったんですけど、最近またしても「3月なのにまだ寒いね」とホザくアホが増えた気がします。その度に俺は「昔松ちゃんが言ってたんだけど…中略…『3月は寒いねん!』って言ってたよ」とこの放送の内容を紹介するハメになるのです。
それはまぁ大した苦労じゃないので全然構わないのですが、問題はYouTubeで放送を再確認した際、松ちゃんが発した言葉が「3月は寒いねん!」ではなく「3月は寒いから!」だったことです。オレ、絶対「ねん」だと思ってましたよ。彼女にもドヤ顔かます勢いでこの話を紹介し、もちろん「ねん」を強めに言うことで笑いを誘ってしまいましたし。赤面ですよもう。人の記憶って…というか俺の記憶だけ特別曖昧なんじゃないか?と不安に陥りました。
ちなみにトークのその後では浜ちゃんの「5月に寒いっちゅうことない」に対して「あるわボケアホ!」と松ちゃんが爆ギレします。5月どころかいま7月ですが、ホントにまだ寒い日がありますよね、皆さんいかがお過ごしでしょうか。一恥かいたところで本題でも書きましょう。

水上におけるプロレスのお話

今回はVol.2です。前回に書きました「水上におけるプロレスまとめ Vol.1」からの続きでございます。引き続き一体どこに需要があるんだか分からないことをまとめてみせます。
軽い気持ちで掘り下げたら、さすがはプロレス、事例が少なそうに思える一つのテーマに絞ったとてそのディープさはとどまることを知らず、非常にかったるいことになってしまいました。水上におけるプロレスの原点を探してみましたが見つからなかったわけです。最初に断っておきますが、今回もまた最古たる原点には至っておりません。もうアメリカの国会図書館的なところに出向いて英語で調べなきゃ判明する可能性がないからです。俺にそんな実力と根気はございません。中途半端に手を出してしまい、申し訳がない気持ちでいっぱいですよ。ただし、です。

前回までに分かったことは、おそらくプロレスの全盛期(というか社会現象になった最たる時期)である1940~50年代に、その台頭に立ったゴージャス・ジョージが出場していたプロモーションの興行で、マリーナスタジアム的な会場、つまり水場がある会場で水上にリングを設置していただろう、ということです。
少なくとも1952年のシアトル・アクアシアターで行われた水上リングの一戦は動画で確認できました(ゴージャス・ジョージ vs マスクド・マーヴェル)。ネット上の書き込みを見る限り、50年も同所で行われていたとされます。digりまくった中ではこれが最古ですが、40年代にも行われていた可能性は大いにあるだろう。

「だろう」で終わるのは文章としては結構最悪です。なのでせめて国内の事情ぐらいは詳細に把握したところで一旦〆たいと思います。Vol.3があるとしたら、気がふれてアメリカまで通訳を帯同し、資料を探し求めた末にしか書きようがないので数十年単位で気長にお待ちください。老後にやることを残しておかないと、人生100年とか言われ始めたのでゆくゆくやることなくなりますよ。

1954年9月のプロレス界に答えがありそうだ

1954年=昭和29年です。
詳しくは前回の「水上におけるプロレスまとめ Vol.1」をご覧ください、いや、なんなら「1954年9月25日・26日 全日本プロレス協会 大阪・扇町プール?」の部分だけ飛ばし読みしても構いません。

調べる必要があった1954年9月16日に日本プロレス・浜松市営プール興行から、まずは紹介していきましょう。

こちらは1954年9月17日の中日新聞です。「日米プロレスリング浜松大会」と銘打たれています。
力道山&遠藤組が、米チームのシュナベル(シュナーベル)&ニューマン組と対戦し、立て続けに遠藤がフォールをとられて敗北したようです。この一カ月前に同チームは東京体育館で対戦し、米チームの卑怯な勝ち方に観客が激怒して、日本プロレス史では初の暴動事件になったと言われています。アツい時代ですねぇ。今なんてちょっと野次ったらTwitterでdisられちゃいますよ。
話が反れました。プールがある会場で開催されていますが、この大会では特に水上リングの模様が見受けられませんでした。どうやらやはりこちらは日本初の水上リングではなさそうです。前回も言及しましたが、力道山がプロレスを日本に輸入する際、バラエティにとんだアメリカのプロレス観そのままではなく、日本人向けにカスタマイズしたものを粘り強く構築している最中なので、アクが強いエンタメ性を盛り込むことは考えづらいってわけです。
一応おさえておいたので、決定打となる次いきましょう。

日本初!「プロ・レスリング水上試合」

もうこれ結論です。ようやく見つけましたよ。1954年9月26日発行の産業経済新聞-大阪が、前日25日の興行を報じていました。「プール上で熱闘」の見出しが躍ります。
本文を見れば一目瞭然、

「日本で初めてのプロ・レスリング水上試合…略…二十五日午後六時から大阪プールで挙行、満々と水をたたえた五十㍍プールに浮かぶリング上で…」

とありました。これで国内の水上リングの原点であることは証明が取れたのではないでしょうか。
どうでもいいですけど、当時は水に落ちる擬音はサブーンではなくザンブだったんですね。写真を見ればこれまた一目瞭然、水中に浮かんだリングから山口がニッセンをザンブと突き飛ばしているわけです。前回まではこの写真だけ見つかっていたのですが、今回は紙面丸ごと見つけてご紹介しております。
ということで、日本初の水上リングによるプロレス興行は1954年9月25日でした。試合会場については次の画像をご紹介してみましょう。

こちらは同日の大阪新聞に掲載されていた紙面での告知です。会場名は「扇町大阪プール」と書かれてますね。
入場料は数百円の時代です。円以下、銭の単位がまだあった時代でしょうか。大雑把に言うと、当時の100円が今の1,000円から1,500円ぐらいだと思われます。
興行タイトルにある「日・米・土タッグマッチ」の「土」は土耳古、つまりトルコのことです。ちなみにドイツは独。どうやらこの三国の代表チームが優勝を争って対決したいたようです。ところが出場外国人選手をいくらググろうとも、なかなか鮮明なステータスが確認できません。というのも全日本プロレス協会は、大物外国人選手の招へいに勤しんでいた日本プロレスとは対照的に、ほとんどが駐留米軍人や下手すりゃその辺にいた腕っぷしの強い外国人のあんちゃんをリングに上げていたと言われています。そりゃ調べても出てこないはずだ。
ちょっとビックリしたんですけど、主催の全日本プロレス協会は分かるんですが、大阪新聞社と産業経済新聞社も主催に名を連ねていました。だから紙面で告知もされるし、試合の様子も写真付きで報道されるわけです。しかも冠には「大阪府知事杯争奪戦」と政治も絡ませています。当時の大阪府知事は赤間文三で、その異名は赤間天皇。この異名だけで強権ぶりとボスっぷりを感じます。
前回、全日本プロレス協会の役員が全て関西系のヤクザだったということはご紹介しましたよね。当時の日本の興行(というか関西・大阪という土地)がいかに表裏一体だったかうかがい知れる一面ではないでしょうか。そして全日本プロレス協会をけん引した山口利夫も、力道山に負けずメディアと日本の有力者を巻き込んだ大仕掛けを施していたことも分かります。
全日本プロレス協会は同年二月の大阪府立体育会館大会でも、後援(共催?)に毎日新聞社をつけて日米対抗プロレスを開催し、更には試験電波とはいえ大阪NHK(関西・東海地区の放送)で中継を実現させているので、この大会で見れる山口利夫の手腕も頷ける。興行に強いヤクザで役員を固め、外国人選手を用意して国際試合をラインナップし、新聞社を後ろ盾につけ、日本山岳会や知事を呼び込んで政治色を出し、更に東京よりも先んじてテレビ放送も実現させるというパイオニアっぷり。ヤクザ、国際色、政治、メディア。パワーバランスの変化はどうあれ、この四つの重要性は現在も同様なんじゃないでしょうか。
無論、力道山も同様のプランニングをしていたでしょうから、力道山からすると山口利夫は次から次に先を越してくる目の上のたん瘤的存在だったことでしょう。
さて改行しましょう。

25・26日の2DAYS興行だったようで、翌日に発行された同じく産業経済新聞-大阪の紙面で2日目の興行が報じられています。
2万2千人の動員が可能とされるこの会場に、紙面本文では

「定刻前からすでに一万七千の大観衆で三階スタンドまでぎっしり埋まるという盛況」

と書かれています。さすが新聞社の告知が後押ししているだけはあります。ちょうど横浜アリーナがピッタリ埋まる人数が、開始前から集まっていたということです。
初日の集客は5,000人とだいぶ差があったのは、不運にも悪天候に見舞われ、それでも強行開催したからだと思われます。当時は前売り予約システムなんて充実してないだろうから、当日券の伸びが全てだったのでしょう。会場がデカい分、その博打性も際立ちます。「本社主催」と銘打ったうえで正直に人数を報じているのに好感が持てますよね。いや、本当の実数は分かりませんけど。
この頃の他の新聞もチェックしてみたところ、台風被害を報じるものが多かったので、集客どころか開催の危機だったと思われます。この2日目も寒かったみたいです。新潟で開催される予定だった日本プロレスの興行も暴風雨により中止と同紙面に書かれていますね。強行するイケイケの全日本プロレス協会、中止・延期する慎重な日本プロレスと個性が分かれているようで趣深い。

というわけで日本初の水上リングによるプロレス興行は「1954年9月25日・全日本プロレス協会(&大阪新聞社&産業経済新聞社)・扇町大阪プール」でした。
なんだか水上リングの歴史ってよりも全日本プロレス協会および山口利夫特集みたいになってしまいました。繰り返しますが、あくまで日本初のご紹介ですので、更なる始祖はおそらく1940~50年ぐらいのアメリカのマット界だと思われます。ご存知の方がいらっしゃりましたらどうかご教授ください。

認識違いがあるかも知れません。お叱り・ご指摘・ご意見はTwitterまで。3月は寒いねん。

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