温かい言葉を綴りたい。 そんな感覚に浸っている。 温かい言葉は読む人に優しく語りかけるような、 文字だけれど柔らかい声が聞こえてくるような、 そういう言葉。 今夜は自分で自分を、温かい言葉で包みたい。 このところは、とっても頑張った。 そして自分の期待に応えることができた。 他者から褒められることで満足できると思っていたけれど、 結局、自分の期待に応えられるかどうかが満足の基準だと知った。 今、とってもいい気分。 濃密な夏 (暑さも) を乗り越えて、やっとまとまった
19という年齢もあるからだろうか、ほんの半年前、高校生だった頃に比べて、自分について省みる時間が格段に増えた。自分の足で立ちたい、自立したいという願望と、当惑。その狭間で… 幾分か前に読んだ本の一節。主人公の隣人である信子が、不幸に悩む主人公にかけた言葉。 つい最近、私生活で小さなつまずきを経験してからずっと、頭の中で浮遊していた言葉。自分を満たすのは自分だということ。人にその役割を背負わせるのは違う。私を幸せにできるのは私で、私を不幸にするのも私。 とはいえど、人から幸せ
ここ数日 普通に生きてる分には出会わないような、膨大な数の気づきと遭遇した。 人間、少しつまづいてみると、普段見えていない地面の機微まではっきりと見えるものだ。足がつかえる前と後とでは、大分、人間が変わったのではないかと勝手に思っている。 でも気づきなんて、また立ち上がって歩き出してしまえば、すぐに忘れてしまう。 せめてまた、次に心が戸惑ったときへの贈り物として、ここに書き記しておこう。 自分のためにも。 1. 親しき仲にも礼儀あり 私はマイペースだ。そんな自分が好きだ
思考がよく喋る、今日だ。 体は呼応しない。 ぼーっとすることを、今、とてもしたい。 そんな一日。 真剣が足りないな、 と改めて思う。思わされる。 でも 真剣なんていらないな、 とも思う。思わされる。 自分の意思も考えも、 出来事がぐらぐらと揺るがしてくる。 大人、について考えている今日この頃、 真剣さはとても大人なような気がして。 一方で、とても子供じみた安直なことにも思える。 大人になれば、決断の一つ一つに責任という重みが加わるから、真剣にならざるを得ない。だけど、
幸せになるには、 何だろう 何が必要なんだろう。 きっといろんな人が考えてきて、 たくさんの答えがあって でも全てが全ての人に当てはまるわけでもなくて やっぱり 自分自身の尺度が必要だと思った。 そもそも幸せの定義が曖昧だ。 完全な一つなどないだろう、きっと、 個人個人のもの。 わたしにとっての幸せは 幸せな気持ちで“ある”こと。 同じことを二度言っているような文章だけど 何となく伝わったら嬉しい これが、 わたしの中では確信している 幸せの定義。 幸せで
体調を崩した、と言うのは大袈裟だが 万全な体調というには大きく首を横に振りたくなる。 こんな具合で今日を始める。 人の文章を読んでいると、 やっぱり私も、というように 書き始める手がある。 今読んでいる本は 井上荒野さんの「ベーコン」 少し大人向けだろうかと怖気付いて Amazonから届いた後も 読み始められずにいた でも、届いた本への興味は 日に日に蓄積され 少し前から、堰を切ったように 読み老けている とても面白い。 彼女のことを知ったのは NHKの趣味どき
(これまた少し前に書いたもの・・・) 今日の天気は、清らかだった。 さっぱりとした強い日差しと 真水のような空気感。 不思議な天気だった。 冬の寒さとは違くて、 夏の清流 山奥に流れる、ひんやりとした源流の冷たさを そっくりそのまま空気にしてみたような。 そういう気候だった そろそろ夏も近づいているのだろうか 今日は涼しい日だ 夏の風流を詰め込んだ お得なお試しセットのような一日。 一足先に、そうめんをすすっている気分 なんだかとっても ハッピーな一日。
誕生日を迎える少し前 ノートに投稿しかけて、忘れていた投稿 今更だけれど、ぽんっ ✳︎ なんだか喪失感 違うな、寂寥感 それか 空っぽの頭 やることなすこと 頭の中を渦巻いている 誰に急かされるわけでもないから 自分で自分を急かしている … 何もしない を恐れる生き物だ 別に何にも悪くないのに 迷惑なんてかけてもないのに 今日もまた縦スワイプのループにハマってしまった自分を ひそかに格好悪く思う あぁ春か 季節が持つ表情を見るのが好きで 季節が
全てが過ぎ去っていく 春はそういう季節 春になるとみんな 後ろの向き方を忘れて 新しい季節と始まりに ただその身をさずける 忘れてしまった “後ろ向き” は 寂しがっているけれど そのことにすら気づかない しばらくそうやって過ごした後に ふと、 寂しがっていた “後ろ向き” を 思い出した そうしたら突然 忘れ去っていた沢山の後ろを 思い出した 私の背中をじんわりと温め続けていた 後ろの世界 あるいは物語 … 最近は 朝に 少しばかりのお散歩を 気が向いた時
私は シニカルな私を愛している 私は ロマンチストな私を愛している 私は 寂しがり屋な私を愛している 私は 一人が好きな私を愛している 私は 面倒くさがりな私を愛している 私は 凝り性な私を愛している 私は ネガティブな私を愛している 私は ポジティブな私を愛している 私は 変えられない私を愛している 私は 変わりたい私を愛している 私は 寝れば忘れる私を愛している 私は 忘れたフリをしていた私を愛している 私は 目立ちたがり
書き途中、半ばにして残された下書きが 増えていく。 特段 書きたいことなどないのだけれど、 何を思ったか、文字を打ち込みたい気分にいた。 情動的に書き始めた文章よりも、つらつらと 手持ち無沙汰を埋めるように書くものの方が 最後まで書き終えられるようだ。 下書きとして残されてしまった文章の数々、 続きを与えられることなく、静かに眠っている。 あてもなく書き始めてしまった今回、 さて、何を語ろう … 一昨日は春分の日だった。 あまりそこに重きも置いていないのだけれど
なんだか えも言われぬ感情、 それか、 感覚。 頭の中ではどうにも整理のつかない胸の奥にぽんと、得体の知れないものが住み着いている きっと感情と言い表すのが最適なのだろう だけど、感情までも鮮明な感じではないのだ だから、どちらかというと 感覚。 季節、天候、気温に左右されやすい性質のわたしだ。 そのことを踏まえればきっと、 この感覚のやってきた理由も分かるはずで… まず、ここのところ突然に 暖かい 春が急ぎ足で訪れてしまったかのように まだ準備のなっていない冬
日常の小さな楽しみ に、 ほんのひとさじのnote そんな気分だ。 連休だからこうして、 特段意味もない文章に時間を費やしていられる。 あぁ、お休みも あとわずか。 そんな寂しさを味わっている。 ここには、ちいさな発見を注いでいきたいと 長らく考えていた。 生活のなかの、 気に留めなければすぐ忘れてしまうほどの、 些細な発見。 「特段意味のない」という形容がぴったりな、 そのくらいのできごと。 それらを地道にコツコツ書きためていきたいと、 なんだか強く思う。 生きた証
やっとパソコンの前にありつけた。 いや、 後回しにし続けて、やっとこさ漂着したというべきか。 ここのところずっと、文章を綴りたいという気持ちで、 心の淵が埋め尽くされている感じだった。 三が日といっても、何かとやることは降りかかる。 完全の休日というものはないのだろうか。 そんな呟きはさておいて やはり新年というと、目標や抱負を掲げたくなるものである。 と同時に、新たな挑戦をしてみたくなるもので。 そのひとつがnoteということだ。 数年前に開設して以来、放置し続けたn