自分の足で立ちたい
19という年齢もあるからだろうか、ほんの半年前、高校生だった頃に比べて、自分について省みる時間が格段に増えた。自分の足で立ちたい、自立したいという願望と、当惑。その狭間で…
幾分か前に読んだ本の一節。主人公の隣人である信子が、不幸に悩む主人公にかけた言葉。
つい最近、私生活で小さなつまずきを経験してからずっと、頭の中で浮遊していた言葉。自分を満たすのは自分だということ。人にその役割を背負わせるのは違う。私を幸せにできるのは私で、私を不幸にするのも私。
とはいえど、人から幸せをもらうこともある。しかし、このとき自分に幸せを感受する器が、あるいはセンサーが無ければ幸せは受け取れない。というか気がつけない。
そういう意味でも、やはり幸せは自分で作るものなのかもしれない。
主人公がひと段落した頃にはもう、信子は息子家族のもとへ越してしまっていた。
主人公はこの言葉を信子に伝えられずじまいだった。
幸せは自分で作るものだ。自分を満たすのは紛れもなく自分の役割である。
だけど、それだったら人の生活に他者はいらない。人は一人では生きていけない。
だから、私しか私を幸せにできないのだ、と意地を張るのはまた違う。
幸せや充足感を補うのは自分であるという前提をまず持つこと。そして要求や期待、搾取という形ではなく、うっかり人や環境から幸せをもらった時には、有難く、余すことなく受け取ること。
自分の足で立つことと、同時に他者のおかげで自分が生かされていること。
私は星座占いが好きだ。
特に、小学校の図書館で手にして以来、石井ゆかりさんの星座の本が好きで、ふとしたときに開いては、度々読んでいる。
上の文章は、彼女の著書に出てくる引用文。サム・レヴェンソンという人の「時の試練を経た人生の知恵」という詩で、オードリー・ヘップバーンが愛した詩としても有名だそう。
「ぐらつかず歩くためには、自分一人で歩いているのではないことを知ること」
この一節が特に、脳裏を離れない。
自分の足で歩いて行くためには、自分一人で歩いているわけではないことを知る必要がある。
少し頭を使う文章だった。矛盾しているようにも思えた。
でも、今となっては少しわかる。
おんぶに抱っこだった日々から、
自分の足で立つことを望み、
私は今、2本の頼りない足で立っている。
あるいは、まだ立とうとしている段階かもしれない。
でも、その隣には、いつも他者がいること。
左右に備わった二つの手は、自分と他者、それぞれの為に存在していて、それを使っては励まし合って、助け合う。
そうすることで、ずっと、それぞれが自分の足で歩いていける。
人間の中に自分がいる。
人間の中で生きていく。
人として生きることについて、何かが見えそうな気がした。
前回の記事で書ききれなかったことを、ここに書き記した。
2024年を半分過ごしたあたりに、躓いて、擦りむいて、今はゆっくり、地面に寝そべっている。
立ち止まることは難しい。動き続けることよりも勇気がいる。
だから、この躓きにありがとう。
きっかけをくれたあなたに、話を聞いてくれたあなたに、見守ってくれていたこの世界に。
多分私は愛されている。
だから私も愛するよ。
ありがとう。