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イサム・ノグチの苦難と成功:第二話 イサム・ノグチの逆境と試練の道

イサム・ノグチ(Isamu Noguchi/野口 勇、1904-1988)
彫刻家、画家、インテリアデザイナー、造園家・作庭家、舞台芸術家等の現代アートに大きな業績を残した日系アメリカ人。
ロサンゼルス(アメリカ合衆国)で、私生児として生まれ、幼少の時から、孤独な中、多くの苦難と逆境に遭遇しながら、数多くの功績を残したアーティストだ。

第二話 イサム・ノグチの逆境と試練


4)日本の美の再認識

1927年、イサムはグッゲンハイム奨学金を得てパリへ留学する。彫刻の巨匠であるコンスタンティン・ブランクーシ(Constantin Brâncuşi, 1876- 1957/彫刻家-ミニマル・アート)のアシスタントをしながら抽象彫刻を学んだ。

その頃のイサムは、多くの恋愛を経験する・・・・・・       
その後、パリから、アメリカへ帰国したイサムの抽象彫刻は、まったく、評価を得られないのだ。
それは、抽象と言うことかも知れないし、国籍の問題かも知れない・・
そして、生活のため請け負った具象である頭部彫刻が絶賛され、それらを売却して、東洋への旅に出る、その終着点は日本だった。
ノグチ姓を名乗っての来日を許さなかった父と十三年ぶりに再会を果たすのだが、父親に対する、憎悪は幾らかおさまるが、やはり理解し合えないのだ。
ただ、その時に、イサムは京都を訪れて、日本の美を再認識して帰国した、その事は、後のワークに影響を及ぼすのだ。
日本にいればアメリカ人、アメリカにいれば日本人と見られるイサム。帰属する国のない孤独は辛い事だっただろう。ただ、その忍耐も、いずれ、功をなす・・。
この時期に、イサム・ノグチは「未来の彫刻は地球そのものに刻み込まれる」(ランド・アートの原点だろう)と思考している。
ランド・アート、公共空間、環境芸術などのキーワードのない時代に、模索の日々が続いた。

5)戦時下と戦後の孤独とインテリア・デザイン


1941年、日米(真珠湾攻撃がはじまりではないのだ、その流れも把握されたい)が、戦争状態に入り、日系人や二世という存在に目を向けらた、イサムはそこに帰属の場を求めるしかなかった。アリゾナの日系人強制収容所に入り、同志として理想のコミュニティづくりに関わろうとする。                  しかしだ、戦後は、そこでも、アメリカのスパイという日本人社会での疑いから、ハーフのイサムの居場所はない。
いつも、イサム・ノグチは孤独だった。(このあたりで、彼の女性問題も理解したいのだが・・)                         そして、ニューヨークで彫刻制作に専念する事になる。         それは、芸術家仲間フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright,1867- 1959/US-建築家)らの嘆願書により、無事に出所し、その後はニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジにアトリエを構えた。            1947年、ジョージ・ネルソン(George Nelson,1908-1986/US-建築家・編集者)の依頼で「ノグチ・テーブル」をデザイン・制作する。そこから、インテリア・デザインの作品も制作して行く事になる。           そして、1950年頃になるが、インド女性との恋に破れたイサムは、ヨーロッパからエジプトを経てインドへ渡る。さらにバリ島をへて再び日本へ。  このとき、丹下健三(1913-2005/建築家)などの多くの日本の芸術家たちと出会いがあり、親交を深めた。そこでは、日本の美を追求する仲間として、ごく自然に受け入れられたイサム・ノグチは「一番好きな日本は、戦後のあの混乱期の日本だ」と後日、語っている。

(追記)次回は、第三話 イサム・ノグチの逆境を成功へ、続きます。


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