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宝塚歌劇・花組「金色の砂漠」の考察(ネタバレ)
砂漠の架空の王国の物語。
悲しみの、愛憎の物語。
円環と光と影の物語。
名作と呼ばれるいくつかのものと同様に、ループと対比によって構成されている。
この作品もまた例に漏れず名作である。
タイトルにもなっている金色の砂漠は作中でこのように説明される。
「そこでは金の砂が太陽の欠けらのように熱して降りそそぎ、その輝く砂嵐の中で肉体は消え、人は魂だけになる。そこは美しくて苦しい、得も言われぬ場所で、金
プリーモ・レーヴィ著「溺れるものと救われるもの」を読んだ
深淵を、そんなに目を凝らして、
何度も手を差し入れて探り、見なくていいのに、とはいえない。
深淵に完全に体を浸して死ななくてよかったのに、とは。
それをしなければいけない理由が著者にあったことがこれを読んだ者には苦痛なほど理解できるはずだ。
著者の理性的考察と感情的な文が混じっていて、それはとても確かなものだが叫びでもある。
これはナチスドイツでの人間のことが書かれているが、ナチスドイツでの
今更、ドラマ「雨が降ると君は優しい」をみた(ちょっとネタバレ、考察)
2017年にHuluで配信された野島伸司脚本によるドラマ。
野島脚本のドラマは「美しい人」(99年)、「プライド」(04年)の2作しかおそらくみれていないが、どちらもトレンディドラマのノルマを完全にクリアしながら、キリスト教的な配色、構図などを巧みに無駄なく配し、主題歌も台詞にも一切の無駄がなく、きちんと拾い集めていけばパズルのようにすき間なくはまる。
メロドラマ、トレンディドラマの皮を被ったと
ツァラトゥストラはこう言った(ニーチェ著/永上英廣訳/岩波文庫)
ニーチェが自分自身に言い聞かせて、自分自身を鼓舞しているような、その鼓舞が波紋のようにこちらに伝わって響いてくる。
意志せよ、自らを超克せよ、自分になっていけ、人生を愛せ、笑え、踊れ、ペシミストに成り下がるな、既成概念に惑わされるな
厳しくも温かい、神じゃない偶像じゃない、自分自身の中にある強さを信じた励まし。
またきっと読み返す。
ニーチェから、自分自身への、私たちへの贈り物のような本。
ピアスに関する最初の記憶
ピアスに関する最初の記憶。
母たち姉妹の父親が自死した時の事だった。
渦のような悲しみのなか遺された家族は、よたよたとしながらも身を寄せ合っていたのを覚えている。
そんな日々を送っている時、母方の家族が営んでいる商店に宝石屋さんが訪ねてきた。
今はそういうことはないかもしれないけれど、昔は訪問販売の人が時々小さな商店を訪ね歩いていた。
母たちの母親は一緒に働いている次女と三女にピアスを開けるこ
今更、映画「無伴奏」をみた。(一応ネタバレ)
学生運動の時代の二人の女子高生と二人暮らしの大学生男子の話。
青春は恋と革命。そんな時代の、そんな季節の、青臭く幼い燻り。
訳も分からず全てに向かってひりひりしていた少女の心が、恋をして個人的な革命に向かう。
個人的な革命って、個人的なくせに大袈裟。でも、個人的なことはとてもロマンチックだ。
青春の権化のような男の子たちは、自分たちのとてもとても個人的な愛情や自己憐憫にめちゃくちゃに女の子た
今更、映画「FOUJITA」をみた。(一応ネタバレ)
フジタ。レオナール・フジタ。
藤田嗣治。
狂騒の1920年代、パリでは共同アトリエに集って制作していた画家たちはエコールドパリと呼ばれた。
1920年代といえばアメリカは失われた世代、その寵児はスコット・フィッツジェラルド。享楽的で破滅的。儚いから騒ぎ。タキシードとフラッパー。
エコールドパリの多くの画家たち、作品に対してもそんな印象を受ける。
モディリアーニ、フジタ、キスリングなど。
不安定な恋
今更、映画「沈黙-サイレント-」をみた(一応ネタバレ)
今更ながらマーティンスコセッシの沈黙をみた。
キリシタン弾圧下の長崎を舞台に、極限状態で信仰が行き着く先はどこなのか、袋小路に追いやられた信仰がどのようになるのかを検証した映画のように思った。
寄る辺ない人生への不安を忘れるため、偶像として物語としてすがる信仰がはじめに描かれ、それが次第に自らの苦しみ裏切りに向き合い、ひたすら神に問い、自らの絶望に目を凝らし、自らを知り、生きることを決めるという
自分で踊る。(覚え書きとして)
何かを批判する時、図らずも批判した本人が自らの品位を下げてしまうことが往々にしてある。
国家というものを、昔から考えごとの最先端にいた人達はこうとらえてきた。信頼できないもの、監視していくべきもの。民主主義って、統治を代表に委託してる。
そしてその制度は国民から考えることを奪ったのか、または国民自身が手放したのか。
国家が信頼するに値しない、監視さるべきものだとして、国民はなんて言われてきたか。
美術モデルという仕事
美術モデルという仕事は、もちろんひとによって考え方はさまざまだと思うけれど、その人がその人自身に還っていくのが重要なことだと思っている。
その人の造形、思想、生活、それに向かっていくことが、ただそれだけが必要なことだと思う。
私ではない誰か、自分というものを塗りつぶし、
張り替えを目指したら途端にいびつになる。
私は私にしかなれないし、それだけがそれこそが美しい姿だ。
それはつまり生きると
考えはじめるかんがえる美術モデル
仕事を聞かれ美術モデルだと言えば
「裸をみられると興奮するの?」
「エロについてはどう思うの?」
「脱ぐんだよね。給料いくらぐらい?払えば脱いでくれるの?絵描くの好きなんだよねー。」
と散々、セクハラ発言をしたあとに
「でも、芸術だもんね。」
と8割くらいに言われ、
どうやら脱ぐ仕事をする人間を下にみる奴が多いらしいとわかり
舐められないために知識や教養が必要だ、と勉強とより思考することをはじめた