プリーモ・レーヴィ著「溺れるものと救われるもの」を読んだ

深淵を、そんなに目を凝らして、
何度も手を差し入れて探り、見なくていいのに、とはいえない。
深淵に完全に体を浸して死ななくてよかったのに、とは。

それをしなければいけない理由が著者にあったことがこれを読んだ者には苦痛なほど理解できるはずだ。

著者の理性的考察と感情的な文が混じっていて、それはとても確かなものだが叫びでもある。

これはナチスドイツでの人間のことが書かれているが、ナチスドイツでの人間のことだけが書かれているのではない。
ナチスドイツで行われた、あるいは現れてしまったことは、本当はフィクションという実験の場で検証されるべき極端で恐ろしく、あまりにも割り切れない、そしてグロテスクなものだった。
実験場で検証されることはしばしば、人間の姿である。
極端に制限を設けた実験室で人間の本性を炙り出す。
それが現実で起こってしまった。
ナチスドイツで起こったこと、あらわれたことは深淵にほかならない。
深淵は私たちから切り離されたものではない。地続きのものだ。
だから知る必要がある。
深淵をみるのは恐ろしいし、苦痛が伴う。だが、目を凝らして見る必要がある。
見る必要がある理由は人によって違うかもしれない。私の理由と、誰かの理由は。

深淵をみる。これだけ目を凝らして。
それができる人間がどれだけいただろう。
そんな書物がどれだけ存在するだろう。

著者は自分の内を火に焼かれながらも書かずにはいられなかった、そして果てしない絶望の中をあまりにも誠実に歩こうとした、そんなふうに生まれた文章を読まずにいられようか。

それはえもいわれぬ美しさを放つ。
確かに生きた人間の美しさを。

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