【創作】水霊の碁 第5話 決断の朝
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第5話 決断の朝
5-1
「大変でございます! 浪士たちが討入りをしたそうです!」
内弟子の一人の大声で、策侑は起こされた。雪の寒い朝だった。道知の寝所に向かうと、道知は既に起きていた。不安そうな顔で、大丈夫だろうかと尋ねる。
策侑は、既に各所に正確な状況を調べるよう言ってあった。ここに被害が及ぶことはないと思うと伝えて、道知の小さな手を握った。
道知はほっとした顔で、唇を半開きにしたまま、策侑の肩に頭を載せ、もたれかかった。策侑は、道知の背中に手を回して、ゆっくりと安心させるように、朝食の時間になるまで擦っていた。
『忠臣蔵』で名高い、赤穂浪士による吉良上野介への討入り、いわゆる赤穂事件が起きたのは、元禄15年(1703年)の1月30日(旧暦12月14日)である。
その翌日には江戸中が、浪士たちの見事な主君の仇討に、喝采をおくっていた。
内弟子の間でも、その話題で持ちきりだった。興奮して称賛する師範代の因碩をはじめ、多くは、市井の人々と同じく、浪士たちに同情していた。
そんな見方と一人違ったのは、老隠居の本因坊道悦だった。
「武家同士の喧嘩ではないか。馬鹿馬鹿しい。昔は幕府に歯向かう者がいて、心底恐怖を感じたものだ」
実際、五十年ほど前の慶安四年(1651年)には、由井正雪による反乱計画、「慶安の変」が起き、道悦が生まれた翌年の寛永14年(1637年)には、島原で大規模な農民反乱が起きている。
「それだけではない、わしが小さかった頃は、戦国の世を生き抜いた老人が生きていたのだ。彼らからは隠せない血の匂いが漂っていた。今の世はそういうものはないのう」
「よいことでございますよ」
「それはそうだが、道知はどうなっておる」
道知は、討入りに衝撃を受けたのか、体調を崩して熱を出して寝込んでいた。道悦は首を横に振る。
「あの子はどうにも心根が優しすぎる。道策のようなふてぶてしさがない。碁の力量は上がったが、盤外であの優しさと臆病さは、今後の支障になる」
「まだ十三でございますよ」
「そなたもまだ十六ではないか」
「わたくしは内弟子の一人。気楽な身分でございます。当主様とは背負うものが全く違います。道知様は、初めての御城碁でも上々の勝ちを収めました。これから名人への道が開けていきます」
御城碁とは、年に一度、将軍様の前で打つ、碁打ちにとって最も名誉ある舞台である。
道知は、三か月ほど前、元禄15年の年末、林門入相手に、素晴らしい打ち回しで、黒番七目勝ちを収めていた。
道悦は憂鬱そうな顔で、キセルの煙を吐いた。
「そうだとよいが」
それから2年後の、宝永2年(1705年)、名人が選ばれる四つの家元の当主は、このようになっていた。
この中で力量が図抜けている年長の因碩は、本因坊道策の遺言で名人にならないようにきつく言われていて、道知の実質的な後見人であるから問題ない。門入は、既に実力的に道知に全く及ばない。問題は、実力者の一人、安井仙角ぐらいであった。
そんな時、事件は起きた。
「えっ? 互先を申し込むのですか」
策侑は、因碩に聞き返した。因碩は、頷いて自信に満ちた顔で扇子で顔を扇いだ。
「申し込むのではない。それが妥当と言っているのだ」
「しかし、手合いはまだ道知様の『先』ではありませんか」
道知と仙角は、仙角が年上なこともあり、道知の先(常に黒を持つ)だった。それを、互先(黒と白を交互に打つ)に変えろと言うのである。
「道知は、わしの教えによって、最早七段格は優にある。仙角なんぞ、問題ではない。御城碁でも、勝ったではないか」
確かに、前年の御城碁は、道知は仙角に五目勝ちしている。しかし、それは道知の先番。道知が後手番の白を打ってもいないのに、いきなり互先を主張するのは、あまりにも無理筋だった。
「それは、仙角様が了承しないでしょう」
「盤上の実力を見れば、妥当だとそなたも思うだろう」
「同意します。が、仙角様は安井家の当主。そんな要求は吞めるはずがありません」
「ならば争碁で決めればよい。古来からそうしているではないか」
おそらく、それが狙いなのだろう。しかし、策侑は食い下がった。
「道悦様が古の安井算知に争碁を叩きつけたのとはわけが違います。今回は我等が明らかに無理な話で、非がある。もし負けたら、道知様は、立ち直れません」
「道知が負けるはずがない」
「勝負の世界は何が起こるか分かりません」
それを聞くと、因碩は、拗ねたような表情になって、そっぽを向いた。
「それでは、そなたが仙角を説得せよ」
「わたくしは門下の一人でしかありません」
「そなたには世渡りの才覚があるのだろう。多くの者がそなたを称賛しておる。
道知はそなたの言うことなら何でも聞く。随分な才能だ。その才能を使って、坊門のためになっておくれ。飯の仕入れだけでなくな」
その皮肉に満ちた言葉に、一瞬策侑は、かっとなった。何とかその場は抑えると、部屋に戻った。
一人になってようやく怒りが収まってきた。
因碩の一面をやっと見られたような気がした。人間は普段は人に合わせて生きることができる。だが重要な何かを左右する決断する時に、その人間の本性が表れる。
道策が策侑と二人きりの時に語った「あの男は野心家だ」という言葉の深い意味が理解できた気がした。
おそらく、因碩には挑発のつもりはないのだろう。跡目になるための争碁を申し込んだ時と変わらず、実力の強い者が正統に評価されるべきと無邪気に思っている。
しかし、それを言われた相手がどのような心持になるのかへの考慮がない。悪い意味で「野心家」と見られて、こちらが損になるのを分かっていない。
ひょっとすると、道策に皆の前で屈辱的に名人の道を断たれた過去が心の傷になって、考えないようにしているのかもしれない。
しかし、人を操る道策の凄みと比べたら、因碩は何段も格落ちしていると策侑は思った。
それとは別に、自分に向けられた言葉にも心は向く。
因碩の皮肉に傷ついてはいない。ただ、才能があるという言葉に、いい加減嫌気がさしてきていた。
その場合、因碩が端的に言ったように、碁以外の才能があるという意味であり、この坊門では、その碁の才能が全てなのだった。
碁の才能がなければ、自分は力を手に入れられない。そして自分にはそれはない。
人々が自分に対して才能があるというのは、便利だから自分を繋ぎ留めていく懐柔に過ぎないように思えるのだった。
それならば、自分が納得できることをやりたかった。自分にも可能性がある世界で、決して人に使われない、自分自身で自分の生き方を決める力を手に入れたかった。
そんな思いが更に強くなったのは、道知と久しぶりに碁を打っている時だった。
二人の実力はもうかなりの差がついて、手合い割は先二子になっていた。
二子局でも敵わなくなっていた。序盤から苦しく、策侑は道知の攻撃を受けて、のたうちまわった。
不意に、道知が失着を打って、策侑の大石は、危機を脱した。その後、終盤にも道知の緩い手が飛び出し、黒の策侑の二目勝ちとなった。
道知は無邪気に笑って、なかなかいい碁だったと言って、時折ちらっとこちらの顔を窺うように盗み見る。
(今、明確に手を抜いていた)
二子番で負けたら、自分がどう感じるのか、道知は配慮したのだ。自分が気付かないとでも思っているのだろうか。
策侑は、何事もなかったかのように振る舞う道知の顔をじっと見て、一人考えていた。
コラム
5-2
因碩の提案に当然の如く、仙角は怒り狂った。
「わしはあの小僧に、黒で負けたことなどない! ふざけるな!」
因碩は、そんな怒りをいなすことも何もしないので、策侑は何度も菓子折りを持って、安井家を訪れた。
ようやく、争碁になることが決められ、手合い割も紛糾したが、仙角の主張する先、因碩の主張する互先の間をとって、道知の先相先となった。
安井家に行くだけでなく、林家の協力も仰ぐため、説得したり良い業者を紹介したりして、策侑はへとへとになるまで働いた。
争碁第一局の前日、疲れで遅く起きた策侑は、日本橋の絹織物業者、島尾彦左衛門との約束が昼にあるのを思い出した。
急いで日本橋に向かい、遅れたことを詫びる。島尾は全く気を悪くせずに、歓迎してくれた。
商売について話が弾み、あまりに楽しく居心地がいいので、つい長居して、夕食までいただくことになった。
その後夜遅く帰ると、屋敷中が大騒ぎになっていた。道知の様子がおかしいという。
青くなって枕元に駆け付けると、道知は白い顔で床に臥せていた。
道知は腹を下し、何度も吐いていた。
毒を盛られたのかと思ったが、門下生たちと景気づけに外で食事をし、生牡蠣を食べたという。
大切な対局の前日に何と愚かなことを、と思ったが、自分もまた、心のどこかで、仙角には勝てるだろうと思い、気が緩んでいたのは間違いない。
いや、今はそんなことを言っている場合ではない。
その晩策侑は、一睡もせず道知を看病した。
翌朝、座って対局ができるくらいには恢復したものの、一晩中吐き続け、道知はげっそりと青い顔になっていた。
横から支えながら、対局の大橋宗桂の屋敷へと向かう。
「すまない、我がしっかりしていないからに。そなたも思っているのだろう」
「怒っていません。道知様は悪くありません。今は目の前の対局に集中しましょう」
対局が始まった。心配していた通り、道知の手が全く伸びない。道知は何度も厠に席を立つ。明らかに集中できていない。
一方仙角はいつも以上に力を発揮している。序盤に大幅なリードを作った。そして長考を繰り返し、体力面でも道知を削っていった。
対局は深夜に差しかかる。老齢の因碩は、疲れて屋敷に帰った。
中盤過ぎた辺りで、ようやく道知の体調が戻ってきた。
厠で何度目かに吐いて、水を飲むと、道知は弱々しい声で傍らの策侑に尋ねた。
「まだ、勝てると思うか」
「勝てます。わたくしを信じてください」
策侑は、道知を抱きしめた。
いつものように、ゆっくりと背中を摩ると、道知の呼吸が落ち着いてくるのが分かった。
道知は、力強く頷いた。
後半から道知の猛追が始まった。物凄い勢いで仙角を攻め立てる。仙角に失着も飛び出し、差がどんどん縮まる。
お互い泥沼で殴り合う、もう訳の分からない闇試合になっていた。
そして夜明けに差しかかる頃、左上で、道知の妙手が飛び出した。
誰もが気付いていなかった。策侑は、これはひょっとすると、と直感した。
対局が終わった。
整地をすると、道知の一目勝ちだった。
仙角は結果を信じられず、並べ直しを主張し、余人にも確かめさせた。対局場は騒然としていたが、三度、並べ直しをして、ようやく結果が受け入れられた。
屋敷の庭で、因碩の元に結果を伝える遣いをやると、空が朝日で美しい黄金色に染まっているのを策侑は見た。二晩徹夜した頭に、光が突き刺さるようだ。自然と心の中に言葉浮かんだ。
(もう、俺は十分だ)
この碁を勝てるなら、もう道知は仙角に負けることもないだろう。そして、こんな大切な対局の前日に、道知から目を離してしまった自分は、道知の傍にいることはできない。
何より、自分の心が、完全に離れている。このまま本因坊家にいては、中途半端な気持ちのまま、道知や坊門に迷惑をかけるだけだ。
道知が名人になる道が開け、自分は碁打ちになる夢を諦める時が来たのだ。
策侑は、朝の空気を吸い込んだ。ようやく、全てを受け入れたのだった。
争碁の第二局は、仙角の出来が極端に悪く、黒番道知の十五目勝ち。道知が白番となる第三局は、道知の手に一つも悪手がない名局で、白番道知の三目勝ちとなった。
三連勝となったところで、仙角は争碁を取り下げ、道知の互先と六段昇進が認められた。
そして、それを見届けて、策侑は坊門を出た。島尾の誘いに応じて、船商人として生きていくことを決めた。
道悦や多くの内弟子は引き留めたが、策侑の決心は変わらなかった。
意外だったのは、因碩が、熱心に引き留めたことだった。
「いつぞやは、そなたを不快にさせてしまった。詫びたい。あの第一局で道知が勝てたのは、そなたが支えていたからだ。そなたは、坊門に必要だ。頼む、この通りだ」
因碩はそう言って頭を下げた。根が単純で、決して悪い人間ではないのだ。策侑は微笑んで首を横に振った。
「お傍に仕えていたのに、わたくしの不行届きのせいで、危うく道知様は一生を棒に振るところでした。因碩様に全てお任せします。道知様が名人になれると信じていますよ」
道知は、策侑が出て行くというのを聞くと、引き留めの言葉をかけることもなく、沈黙していた。
引き留めても、決心は変わらないと理解しているように思えた。それが、策侑には、自分を心から分かってくれたように感じ、嬉しかった。
仙角との激闘で、道知の顔つきも少し大人びたようになった気がした。これからも、ああした闘いで、成長していくだろう。お互いが大人になることを受け入れたように感じた。
旅立ちの日、道知の部屋で、最後の挨拶をした。一緒にいた六年間、家事や稽古で長い時間を過ごしていた。だが、思い出話をしようにも、言葉が出てこない。
お互い黙っていると、道知がかすれた声を出した。
「手を」
策侑が手を差し出すと、道知は袂から何かを出して握らせた。
「これを」
それは、二人が初めて会った時に道知が持っていた、白黒の碁石に、白い花飾りがついたお守りだった。
策侑は微笑んだ。
「また、会おう」
「勿論でございます」
その言葉が難しいことは、お互い分かっていた。それでも、笑顔になって、二人は抱き合った。
(続)
※次回 第6話 月のかんざし
※この文章は、架空の人物・作品・地名・歴史と現実を組み合わせたフィクションです。
【参考文献】
・『日本囲碁大系 第三巻』(筑摩書房)
・『日本囲碁大系 第四巻』(筑摩書房)
・『日本囲碁大系 第五巻』(筑摩書房)
・『元禄三名人打碁集』 福井正明著
(誠文堂新光社)
・『物語り 囲碁英雄伝』田村竜騎兵著
(マイナビ囲碁文庫)
・『坐隠談叢』安藤豊次著
(關西圍碁會 青木嵩山堂)
・『道策全集』藤原七司著(圓角社)
※第1話
※第2話
※第3話
※第4話
今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回の作品・エッセイでまたお会いしましょう。
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