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こぼれた愛を繋ぎ合わせる -名作小説『ペドロ・パラモ』の魅力
【水曜日は文学の日】
ディズニー/ピクサー映画の『リメンバー・ミー』を観た時、メキシコの、死者と生者が同居している描写に、どこか懐かしさを覚えました。
それは、同じメキシコの小説家、ファン・ルルフォの小説『ペドロ・パラモ』に、長年親しんでいたからでした。
その小説の、死と生、お祭り騒ぎと突発的な暴力が常に隣にあるような世界は『リメンバー・ミー』の奥底にあるように感じます。
そして、それだけでなく、痛切な愛に満ちたこの『ペドロ・パラモ』は、私の人生でも、確実に五本の指に入る小説です。
ファン・ルルフォは1918年、メキシコの農村生まれ。当時はメキシコ革命の余波を受け、政府や教会、反政府ゲリラの対立が厳しい時代でした。
父は山賊に殺され、農場も焼き打ちにされ、兄弟もみんな殺されるという凄まじい環境だったと語っています。
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メキシコ・シティーに出て、入国管理局で働きます。その後何度か職場を変えるものの、専業作家ではなく、会社員として一生働き続けています。
短編を雑誌に発表するようになり、それらを集めて短編集『燃える平原』を発表。簡素な描写で生と死が炸裂するこの名短編集をステップに、1955年、長篇『ペドロ・パラモ』を発表します。
今では、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』と並ぶラテンアメリカ文学の名作となったこの作品。
その完成度の高さ故、ルルフォはその後長篇を書こうとしたものの果たせず、1986年、68歳で亡くなっています。
コマラという町に、ファン・プレシアドという男が入ってきます。会ったことのない、コマラの有力者で父親のペドロ・パラモを訪ねるためです。
亡くなった母親に美しい緑の町と聞かされていたコマラは、今は荒れ果て、人が殆どいない、廃墟の町になっています。
今は、物音ひとつしないこの町にいる。街路に敷き詰められた丸石の上に落ちる自分の足音が聞こえた。俺のうつろな足音が、日没の太陽に染められた壁にこだまして、繰り返される。
出会った男に、ペドロ・パラモはもう死んだと聞かされるも、僅かに残った人を訪ねるファン・プレシアド。そこは同時に、死者たちの様々なざわめきや、囁きで溢れている町でした。
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映画界と繋がりがあったこともあり
ルルフォは二冊の小説以外に
多くの写真を残している
©Juan Rulfo Foundation
生前のペドロを知っているという老女ダミアナ・シスネロスに導かれ、ざわめきに耳を傾けるうちに、ファン・プレシアドと、読者の私たちは知ることになります。
なぜ美しかったコマラは、こんな廃墟になったのか。ペドロ・パラモはどのような人物だったのか。彼がどう生き、死んで、何を愛したのかを。
この作品の特徴は何といってもこの死者たちのざわめきです。
ダミアナ・シスネロスは語ります。
この町はいろんなこだまでいっぱいだよ。壁の穴や、石の下にそんな音が籠ってるのかと思っちまうよ。歩いていると、誰かにつけられているような感じがするし、きしり音や笑い声が聞こえたりするんだ。
幽霊たちの呟きを模して、ペドロ・パラモの過去が断片的に飛び飛びに語られていきます。それは、モダニズム的な時空間の処理でもあり、同時に、時制が自由自在に動く民話のような感触もあります。
その処理の巧みなこと。
例えば、モダニズム小説の金字塔であるジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』は凄いと思っても、主人公たちの矮小な出来事を、なぜここまで技巧的に語らなければいけないのかと、疑問を覚えることがあります。
しかし、『ペドロ・パラモ』では、時制が飛ぶのは、様々な死者たちのヴィジョンが交錯するからであり、その死者たちは全て、過去のペドロ・パラモと、現在の廃れたコマラを繋いでいる。
そして、スムーズにファン・プレシアドの語りから死者たちへと移行します。形式が内容に緊密に結びついているのです。
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その断片から浮かび上がるのは、ペドロ・パラモという男の不毛な愛です。彼が唯一愛した人妻、スサナ・サン・ファンへの、決して手に入らない愛。
私がこの作品が好きなのは、失われた愛についての物語だからです。
ペドロ・パラモは、幼馴染のスサナを取り戻そうと、街の実力者になって、手を尽くします。しかし、彼女の方は、それに応えられない事情を抱えていました。
どれほど愛しても決して届かない愛。神話と違って、死んだ後ですら心を通わせることもできず、絶望のざわめきだけが地上を漂っている。
作品の中でスサナに呼び掛けるペドロのモノローグは、哀感と抒情に満ちています。
戻ってくれって、頼んだのに・・・。
・・・夜空には大きな月がかかっていた。おれの視線はどこまでもおまえの姿を追い求めた。おまえの顔に、月の光が流れていた。おまえの幻をいくら見ても、飽きることはなかった。
月の光をうけて輝くなめらかでふっくらとしたおまえの唇は、濡れたように星の虹にきらめいていた。おまえの体は夜霧の中に透き通って見えた。スサナ。スサナ・サン・ファン
私たちは愛を求めても、いつも手に入れられるとは限らない。その誰もが味わう痛みがあるからこそ、この小説はメキシコの一時代を超えた普遍性を持って、私たちの心を打つのです。
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ペドロ・パラモは、凄まじい暴力の中を生き抜いて、自らもあくどいことを多数して、のし上がった男です。
それでも、とある箇所で「もう報いを受け始めているんだ。早い方がいいだろう」と言うように、自分の罪を自覚しています。そしてスサナを失ったとき、生きる意味も消える。
それは、消えてしまったかつての美しい町、コマラのようです。ファン・プレシアドの母がコマラを回想するモノローグは、この作品で例外的な幸福感に満ちています。
青々とした平原。穂が風にそよぎ、地平線が並みを描くのが見える。午後になると陽炎が立って、雨が幾重にも渦を巻いて降りそそぐ。土の色、アルファルファとパンの匂い。こぼれた蜜の匂いを漂わせる町
現実は地獄のようでも、思い出の中の過去は、美しく輝いている。
ルルフォは、この死の町と、不毛な男の愛を通して、自分が見てきた、本当に愛した者や場所のエッセンスを、小説という形で永遠に残したというべきでしょう。
私たちが芸術やエンタメを必要とするのは、そうした、現実からこぼれおちてしまった「失われた愛」の破片を繋ぎ合わせて、もう一度見つけるためなのかもしれません。
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今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。
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