【創作】クレオパトラの恋文【幻影堂書店にて】
※これまでの『幻影堂書店にて』
「リスが喋った!?」
「リスではない。君が驚かないように分かりやすい姿で出てきただけ。私はマルス。覚えておくといいよ」
マルスはそう言ってあくびする。リスの全身が光に包まれ、うにゅっと形が変わり、角の生えた、人の半身くらいの大きさの、白い竜が現れた。
「安心していいよ。彼女は僕が出て来たから、一時的に別の世界に行っただけ。違う電波の周波数ごとに聞こえてくる音が違うようなもの。彼女と僕では周波数帯が違うのさ。僕が出て来たから、彼女は消えた」
マルスはそういうと、口からふわっと炎を吐き出す。
その白い炎は形を変え、本の形になると、いくつかの本やレコード、手紙の紙片に変わって、デスクの上にふんわりと収まった。かぎ爪のついた手で、器用にペンを操ると、ノアの帳簿に文字を書き記す。
光一は、彼の言葉の調子にどこか反発するものを覚えた。そして、彼が言った言葉を思い出して、慎重に尋ねる。
「あの子が、ノアが偽物というのは?」
「そのままの意味だよ。彼女はこの本屋を維持するために造られたオートマタだから。誰かの記憶を持って作られ、ここの管理にあたっている。つまり偽物の器。
元の記憶の人は、この本屋と彼女を創った奴の、大切な人だったらしいけど、詳しいことは知らないな。で、僕は奴に嫌われているから、出くわさないよう、オートマタはチューニングされているわけ」
「あなたは嫌われているのに、ここに来るんですね」
「ここには沢山の記憶の破片があるからね。商売になるし、僕は腕のいい商人だ。奴も商人だから、それは分かっているのさ。カストルプから、最近面白い奴が店にいるよと聞いていたけど、君だったんだね」
光一は、ミケランジェロの手紙を持ってきた、カストルプという若い本売りの男の顔を思い出した。そして、言葉を吐き出す。
「僕は、なぜここにいるのか、分からないんです。ノアのことをどこかで知っているような気がするけど、ここに来るのはとぎれとぎれでしかない。
彼女と一緒に本の世界にいる時間は心地よいし、何かの秘密を見つけたいとも思っている。でも、それを続けていいか分からない」
光一はまた、自分で喋った後に自分で驚いた。このマルスという獣にはどこか反発を感じるのに、普段ノアに言えないことも喋ってしまっている。マルスはしっぽのとぐろを巻いて、口を開く。少し笑顔になったように光一には感じられた。
「君は、今なぜ自分が喋っているのか分からないけど、言葉を発しただろう。君は多分この店で、様々な記憶の破片に触れている。その破片が君の中に流れて、君の言葉を紡ぐ。
記憶によって君が無意識に紡いだ言葉が、君の方向を決める。記憶とはそういうものだ。
僕に反感を抱いているね。あの人形を偽物と呼んだから。でもまあ、偽物であることは悪いことではないんだよ。そうだな、丁度今日面白いものを持ってきたから、特別に見せよう。これは高値がつく。クレオパトラが書いたラブレターだ」
「古代エジプトの?」
「そう。勿論、偽物。でも、ただの偽物じゃない。エジプト学の大家にして、ロゼッタストーンの解読者、シャンポリオンがでっちあげた、表の世界では流通できない贋作だ」
ジャン・フランソワ・シャンポリオンは、1790年フランス生まれ。幼い頃から、語学の才能を見せ、青年の時には10近い古代語をマスターしていた。
弱冠19歳でフランスの地方グルノーブルの歴史学教授に任命され、古代エジプトで使われたヒエログリフが載ったロゼッタストーンの解読にあたる。1822年に、表意文字と表音文字の複雑な組み合わせによってできたヒエログリフの解読に成功。
これにより高名になり、後年、念願のエジプトへの調査旅行に出て、フランスの最高学府機関コレージュ・ド・フランスの教授となるなど、学問の道に専念したが、1832年、コレラにより41歳で亡くなっている。
「彼はエジプトへの旅行の際、モナコのカジノですっかり負けて借金を背負ってしまった。こんなことは誰にも言えない。
その時、古代エジプトに興味を持ち、シャンポリオンのことも知っていた「老伯爵」と知り合った。で、クレオパトラの恋文が残っているから、それを上げると約束して、借金を肩代わりしてもらった。
シャンポリオンが、その後で老伯爵に送ったヒエログリフに添えられた、それを解説した文書がこの小冊子だ」
その言葉の横に、鳥や人が並ぶ絵があり、解説が続く。光一は、異様な違和感を覚えて、マルスをみた。マルスは、はっはと笑って、口から炎がこぼれる。
「勿論、こんな文書は、古代エジプトに書かれていない。
クレオパトラが言及する鼻は、17世紀のフランスの哲学者パスカルが書いた「クレオパトラの鼻が低ければ、世界の歴史は変わっていただろう」を使ったものだ。「しかしながら」のくだりは、シェイクスピアの『アントニーとクレオパトラ』の引用だ。
知識がある人が見れば、偽りと分かる。でもこれを貰った公爵は、大変喜んで、周囲に自分はあの高名な学者シャンポリオンと会話したことがある、と自慢していたそうだ。貰ってすぐに亡くなったから、多分シャンポリオンが一時間ででっち上げたことに気づくこともなく、幸福に死んでいったんだろうね」
「つまり、騙したんですね」
「まあ、そう。シャンポリオンも、相手が全く知識がないのに、古代エジプトへの憧れを持っていることに気づいたんだろう。もし仮に貴重なクレオパトラの恋文があったとしても、あげるわけがないよね。この文書について問われた彼は、手紙を残しているよ。その次の頁だ」
私の若気の至りで、とても後悔している。A公爵は、大変気前のいい方で、私の借金を肩代わりしてくれたばかりか、この卑劣で残酷ないたずらに気づくことなく、亡くなる前に私に金一封と貴重な懐中時計を送ってくださった。この言葉を添えて。
とんでもない、救いようもなく愚かなのは私で、彼の偉大な精神に及ぶべくもない。彼の友情に応えるため、私は残りの生涯を学問に捧げる。
人は自分が信じたいものしか信じない、というのはよく言われることだ。それは間違っていない。だが、それは、人は常に何が信じられるのかということを考え、探し続けて生きている、という意味なのだ。
私は今では解読不能の言葉に隠された真実を見付け出してきた。真実は追求されるべきだろう。だが同時に、それを人が信じられるか、人の人生に何の意味をもたらすか、は別に考えられるべきなのだろうと思う。
マルスは、さっと尻尾を振り、文書は再びカウンターに戻った。ちょろっと舌をだして、マルスは付け加えた。
「まあ、こういうわけで、偽物は決して否定されるべきじゃない。そこには人間の、こういってよければ、欲望が刻まれているわけでね。欲望にも様々なグレードがあるのさ。
この本は高値がつくよ。なぜなら、クレオパトラという要素が嘘であっても、シャンポリオンという偉大な名前があるからさ。それは公爵が金を出した仕組みと同じ、欲望の価値だね。造られた偽物であってもね。
僕はあの偽物のオートマタは好きじゃない。でも、そこには何かの欲望が働いていて、そして君がこの店や彼女に引き寄せられるということは、何かの意味がある。僕には分からないけどね。
だから、君は多くの本を読んで、意味を見付け出せばいい。いつか君はシャンポリオンのように、難解な世界の秘密を解読するかもしれないし、公爵のように幻影を信じて死んでいくかもしれない。
でも、どちらも肯定されるべき。それが僕たち、死すべき者なのだからね」
光一は頷いた。この獣は、自分とは相容れない何か、波長のようなものを持っていて、それはノアにも関係しているのかもしれない。でも、信頼はできる存在だと感じた。
「長居しすぎたな。まあ、また売りに来るから、その時はゆっくり話そう。ではまた」
マルスは身体を丸めるように首を胸に近づけまた光に包まれた。その光が消えると、後には書物だけがカウンターに残っていた。
そして、椅子の上に光の粒が集まりだし、像をかたどっていく。それが色づくと黒い衣装が現れ、ノアが戻った。
ノアは、目をぱちぱちと瞬きながら、宙を見つめていたが、意識を取り戻したように、目を見開くと、光一の方を向いた。
「ごめんね、ちょっと眠っていたみたい。たまにあるんだ。座ったまま眠っている」
「おかえりなさい。そこ、業者さんが送ってきてくれたみたいだ」
「ああ、こうやって置いてくれる仕入れ業者さんもいるんだよ。ありがたい。紅茶、冷めていない?」
光一は、ノアの聞き慣れた澄んだ声に、暖かさを感じた。自分はこの声を聞いていたい、その今の気持ちは間違いなく本物だと感じていた。光一は静かに微笑んで答えた。
「ありがとう、大丈夫だよ」
(続)
今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。
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