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なぜ「映画史上1位」を『ジャンヌ・ディエルマン』は獲れたのか?

ランキングというのは、そのジャンルの実態を表す非常に興味深いサンプルです。内容の是非はさておき、現在だけでなく、そのジャンルの未来まで見えてくることがあります。
 
今回は、とある映画ランキングを取り上げて、なぜこのような順位になったのかを考察します。それによって、映画というジャンルのこれからについても書きます。



後で目次を出しますが、この稿はかなり前から書き足し続けていたもので、いつもの倍以上、10,000字くらいの分量があります。ですので、お時間がある時に読んでいただければ(明日からはいつもの感じに戻ります)。
 
でも、映画好きだけでなく、文学、美術、演劇、音楽、アニメ、アイドル等、色々な文化やエンタメで好きなジャンルがある方に、是非一度読んで欲しいとも思っています。
 
私にとって、このランキングは、自分の好きなもの、もっと言えば、今後の人生について考えさせられるものでした。そうした瞬間は、誰にとっても、いつかは来るものだと思うからです。




  



1.はじめに ー意外な「映画史上1位」


 
今回取り上げるのは、2019年に、イギリスの英国映画協会(BFI)の映画誌「Sight and Sound」がアンケートを取って発表した「史上最高の映画」アンケートです。世界中の1639人の映画評論家に、ベストテン作品を選んでもらい集計するランキング企画です。
 
現役のプロの映画批評家たちの、票数15,000票以上の映画作品の、ベストテンを見てみましょう。
 

1位 ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080 コルメス河畔通り23番地
(シャンタル=アケルマン、1975年)
2位 めまい
(アルフレッド=ヒッチコック、1958年)
3位 市民ケーン
(オーソン=ウェルズ、1941年)
4位 東京物語
(小津安二郎、1953年)
5位 花様年華
(ウォン=カーウァイ、2000年)
6位 2001年宇宙の旅
(スタンリー=キューブリック、1968年)
7位 美しき仕事
(クレール=ドゥニ、1999年)
8位 マルホランド・ドライブ
(デヴィッド=リンチ、2001年)
9位 カメラを持った男
(ジガ=ヴェルトフ、1929年)
10位 雨に唄えば
(スタンリー=ドーネン&ジーン=ケリー、1952年)

 
1位の「史上最高の映画」に選ばれたのは、『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080 コルメス河畔通り23番地』(以下、『ジャンヌ・ディエルマン』)でした。この結果は、一部で非常に物議を醸しました。

『ジャンヌ=ディエルマン』



 
おそらく、映画を普段あまり観ない方からしたら、「何その映画?」だと思います。ある程度の映画好き、例えばハリウッド映画やマーベル映画を沢山観ている方も「何その映画?」となったと思います。
 
そして、ヌーヴェルヴァーグ等、色々な「芸術映画」を沢山観ていて、『ジャンヌ・ディエルマン』を観たり知ったりしているシネフィル(映画狂のこと。私はここに属しています)は、「なぜあの映画が?」という、驚愕と困惑を覚えたと思います。
 
要するに、あまりにも意外な一位で、はっきり言えば、ありえない結果だったのです。



 
しかも、『ジャンヌ・ディエルマン』は、女性監督が撮った、200分もの間、主婦の日常を淡々と描くフェミニズム映画(これは監督本人が公言しています)の傑作です。その内容と相まって、ネット上も多くの意見が飛び交いました。
 
『タクシー・ドライバー』等の脚本で知られる、映画監督・脚本家のポール=シュレイダーは、公然とこの結果を非難しました。シュレイダーの主張を簡単に要約すれば、

私は『ジャンヌ・ディエルマン』は好きだし、優れた映画だと思う。しかし、この作品が映画史上1位というのはおかしい。これは、映画の歴史を考慮して選ばれたものではなく、過剰なポリティカル・コレクトネスによるものだ。

 というものです。これは、彼に限らず、多くの論者に見られる主張でした。
 



この稿では、この『ジャンヌ・ディエルマン』が、なぜ「映画史上1位」になれたのかを考察します。というのも、この結果には、映画というジャンルの歴史を巡る、2010年代後半から2020年代の興味深い部分が、露呈しているように思えるからです。
 
結論から言うと、この結果はシュレイダーの言う、過剰な配慮によるものではありません。もっと言えば「一位を獲れた理由」は、女性映画やフェミニズムと、何の関係もありません。おそらくはアンケートの投票者や、シュレイダー達も気づいていない、別の現象があるように思えます。
 
まず『ジャンヌ・ディエルマン』とはどのような映画かを簡単に紹介し、この映画がランキングで上位になれた理由、一位を獲れた理由、そして、このアンケートが露呈した、映画というジャンルの歴史の問題を、順を追って考察したいと思います。
 
なお、ここでは、作品の優劣やメッセージ内容の可否でなく、あくまでランキングの結果にこだわって、その「現象」に特化して、論点とします。
 
論じる前に、先のアンケートの、ベスト10の結果を再掲します。1位以外は有名作品が多いとはいえ、この結果もある意味驚きで、重要な論点を持っています。

1位 ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080 コルメス河畔通り23番地
(シャンタル=アケルマン、1975年)
2位 めまい
(アルフレッド=ヒッチコック、1958年)
3位 市民ケーン
(オーソン=ウェルズ、1941年)
4位 東京物語
(小津安二郎、1953年)
5位 花様年華
(ウォン=カーウァイ、2000年)
6位 2001年宇宙の旅
(スタンリー=キューブリック、1968年)
7位 美しき仕事
(クレール=ドゥニ、1999年)
8位 マルホランド・ドライブ
(デヴィッド=リンチ、2001年)
9位 カメラを持った男
(ジガ=ヴェルトフ、1929年)
10位 雨に唄えば
(スタンリー=ドーネン&ジーン=ケリー、1952年)

 


 



2.『ジャンヌ・ディエルマン』とはどのような映画か

 

2a.監督と作品について


 
『ジャンヌ・ディエルマン』を監督したシャンタル=アケルマンは、1950年、ベルギーのブリュッセル生まれ。母親との関係は上手くいっていなかったらしく、それは、彼女の生涯の主題になります。

シャンタル=アケルマン



彼女は15歳の時、ゴダールの『気狂いピエロ』を観て衝撃を受け、映画監督を志すようになったと語っています。自主短編映画を撮りつつ、21歳の時、ニューヨークに渡米。ジョナス=メカスや、マイケル=スノウといった、ニューヨークの実験映画やアンダーグラウンド映画に大きな影響を受けます。
 
同時に、フェミニズムや女性が映画を撮ることについても模索を続け、秀作『私、あなた、彼、彼女』(1971年)等を撮った後、ベルギーに戻り、1975年に国から助成金を得て『ジャンヌ・ディエルマン』を製作することになります。この作品のスタッフも、殆どが女性でした。
 
その後もインディーズの立場から意欲的に映画製作を続けますが、2015年に亡くなっています。


 
では、『ジャンヌ=ディエルマン』とは、どのような映画なのか。この作品は200分もの間、殆ど、女優デルフィーヌ=セイリグ演じるシングルマザーの主婦が、狭いアパートの中で家事をする様を見つめます(ちなみに、謎のような原題は、彼女が住んでいるアパートの住所です。そして、彼女の公的な立場を示す情報は、それしかありません)。

『ジャンヌ・ディエルマン』



彼女はカツレツのような料理を作り、子供を送り迎えし、掃除をして、食器を洗い、子守をして、買い物に出かけます。そして、子供が学校に行っている間に、自宅で売春をして、生計を立てていることも分かります。しかし、単調な毎日が繰り返されるうちに、突如としてその生活が変調を迎えます。
 
この作品の凄みは、映画音楽や劇的な展開抜きで、しっかりと、主婦の普段していることを捉え続けることです。それも定点の監視カメラではなく、劇映画のような、あるいは絵画のような美しい構図で。しかも、長回しで捉えつつ、間延びするギリギリでカットをかけて繋げています。
 
そうすることで、主婦の生活を、覗き見ではなく、重要な人間の身振りとしてとらえ続けることになります。そして、この人物に対する観客の判断を迫ることになります。
 
つまり、この映画を退屈と思うなら、あなたは主婦の生活を退屈と思っているということです。
 
この映画には、人物の悲惨な状況への、声高な告発はありません。ただ、観客も主人公と同じ時間を味合わせることで、観客がこの状況をどう捉えるのか、思考を促すのです。その意味で、告発や主義主張よりも遥かにラディカル(過激)なフェミニズム映画と言えます。
 
この映画の製作中、もっと高いところにカメラを置けば全体が撮れる、と主張したカメラマンに対し、「私は背が低いからこの位置のままでいい」とアケルマンが返したという逸話が残っています。確かにこれは、アケルマンという個人が、主婦をどう見たいのか、という思考が発露された作品であり、それゆえに、今でも残る作品と言えるでしょう。



2b.「女性映画」ということ


 
では、ランキングの話に戻りましょう。このように優れた作品ではありますが、「女性」という要素が、上位にいけた理由とは到底思えないのです。
 
女性監督かつ、フェミニズム的な感覚であれば、フランスのアニエス=ヴァルダの諸作が、発表時から高い評価を受けていました。実験映画なら、ニューヨーク・アンダーグラウンドシーンの、マヤ=デレンの傑作短編『午後の網目』、あるいは、チェコのヴェラ=ヒティロヴァの『ひなぎく』もあります。

マヤ=デレン『午後の網目』


 
2024年の現役監督の作品なら、フェミニズムとの距離にはそれぞれ濃淡がありますが、クレール=ドゥニ、イルディコー=エニェディ、リン=ラムジー、ケリー=ライカートやマーレン=アデの作品も素晴らしい。もっと古典的な作品なら、ハリウッドの大女優アイダ=ルピノが1950年代にハリウッド・システムの中で撮った作品も、近年高く再評価されています。
 
今挙げた女性作家には、ランキングの上位に入っている作品は数本あります(ドゥニはベストテンに入りました)。しかし、1位の『ジャンヌ=ディエルマン』とは明らかに断絶がある。票数を見ると、この作品は圧倒的なのです。
 
実験映画で、しかもメジャーな配給ではない、言ってみれば、自主映画に過ぎない『ジャンヌ・ディエルマン』がなぜ1位になったのか。それを考えるには、女性映画、フェミニズム映画という側面を、一旦置いた方がいいと思えてきます。
 
まず、上位のベストテンにランクされた映画を見て、その共通点を考えてみたいのです。


 

3.ベストテンについて

 

3a.なぜ上位になれたのか


 
では、その上位の特徴は何でしょうか。それは一言で言うと、非常に個人的な映画だということです。もっと言うと、低予算の製作費で、今の2020年代に創りたいと多くの人が思えるような作品ということです。
 
それは作品の主題に顕著です。主婦の日常(『ジャンヌ』)、恋人への不信と別離(『めまい』、『花様年華』)、家族のありよう(『東京物語』)、キャリアとプライベートの葛藤(『市民ケーン』、『マルホランド・ドライブ』)、差別と同性愛(『美しき仕事』)。
 
こうしたミニマルな個人的な主題を、派手なセットやCG無しに透徹した視点で撮れたのが、これらの映画です。つまり、観た人に、これなら自分だって撮れるのではないかという気持ちを、一瞬でも起こさせる映画だということです(勿論実際には難しいわけですが)。

ウォン=カーウァイ『花様年華』



そこには、伝統的な撮影所が世界中でほぼ崩壊し、You tube等の動画がメインになった時代、誰もが動画をアップできて、観ることができる時代の好みが、集合的無意識として反映されているように思えます。
 
更に、デルフィーヌ=セイリグ、ジェームズ=スチュワート、原節子のような、綺羅星のような映画スターが主演していますが、彼女ら、彼らは、一見スターと分からないような撮られ方をしています。ごく平凡な一般人のような扱いです。
 
つまり、自分のような人間にとって大切な人、大切な感情を、自分の身の回りの場所で、撮影して残して作品にしたい、と思った時の(そして、今はそれをできる時代です)、レファレンスになる作品なのです。


 
いや『市民ケーン』、『2001年宇宙の旅』、『雨に唄えば』は、大掛かりなセットや群衆を使っているし、個人的とは到底言えないのではないか、それに『カメラを持った男』はどうなるのか? と仰るかもしれません。
 
『2001年宇宙の旅』は、ちょっと後で言及します。しかし、他の三作品については、明らかに今の時代に輝く映画です。それは、映像のコラージュという点においてです。
 
『市民ケーン』は、フェイクのニュース映画、インタビュー、回想シーン、ナレーション等様々なレベルの映像と音声を駆使して、一人の人物の生涯と歴史に迫ります。その雑多且つ緻密な構成で思考を誘発する様は、You tubeに大量にある、歴史解説動画の元祖と言ってもいいぐらいです。
 
また『カメラを持った男』は、異様な露光や、スローモーション、撮影や編集の過程を映した自己言及的な場面等、映像そのものの美しさを味わう快楽や、映像の製造過程に焦点をあてた作品です。


ジガ=ヴェルトフ『カメラを持った男』


更に『雨に唄えば』も、映画製作の舞台裏や、トーキー映画という、映画にとっての一大転換を悲喜こもごもに描くと言う意味で、映像ができる裏側を描く、自己言及的な作品です。
 
これらの作品は、まさに、映画館やテレビの時代ではありえない位、雑多な階層の映像が混じって放流されている、この動画時代にマッチした作品なのです。
 
舞台裏のドッキリを配信するYoutuberや、秒単位でひたすら音とダンスの快楽を垂れ流すTic Tok、あるいは意図不明な個人の映像が跋扈する動画たちのチャンネルに、直接つながっているとすら言えます。
 
まとめると、『ジャンヌ・ディエルマン』がまず上位に来たのは、投票時期の2019年から現在の2020年代にかけての、誰もが撮れる動画時代の、人々の心性が影響しているのではないかということです。
 
 



3b.なぜ1位になれたのか


 
では、上位に来れたとして、なぜこの作品が1位になったのか。それは、端的に言って「競合がいなかったから」です。
 
まず、ジャンルでの競合がいません。主婦の日常のみ(あくまで「のみ」です)を描いた作品で、他に挙げられる映画は、ほぼ皆無といって良いでしょう。
 
『めまい』のファム・ファタールによって破滅するフィルム・ノワールなら、たちどころに、山ほど名作を挙げられます。

『市民ケーン』の政治ドラマ、『東京物語』の家族ドラマ、『花様年華』の不倫ドラマ、『2001年宇宙の旅』のSF映画等についても同様。これらは、明確にメジャーなジャンルに属していて、数多の名作と競合しています。
 
そうしたジャンル間の競合がなく「身近な主婦の家事を題材にした名作」となった時に、たちどころに『ジャンヌ・ディエルマン』が浮上してくるのです。
 

小津安二郎『東京物語』


更に言うと、映画作家内での別作品との競合もありません。
 
ヒッチコックなら『めまい』ではなく、『サイコ』や、『北北西に進路をとれ』、『裏窓』を挙げる人もいるでしょう。ウェルズなら、『市民ケーン』でなく、『偉大なるアンバーソン家』や『黒い罠』もあります。小津なら『晩春』、『浮草』、『秋日和』も作品として遜色ありません。
 
しかし、アケルマンの代表作は、誰が見ても『ジャンヌ・ディエルマン』です。彼女は他にも『アンナの出会い』や『囚われの女』といった秀作を残しています。しかし、『ジャンヌ・ディエルマン』は、その長大さや、作品に込められた意識の深さ、野心等、彼女が自身の代表作になれるように意図して製作し、それに成功した作品です。アケルマンの作品を考えた時、他の作品をあげるのは不自然です。

アケルマン『アンナの出会い』



勿論、1監督1作品と決まっているわけではないでしょう。私は全部の票を調べたわけではなく、一人の監督の作品を複数挙げている人もいるのかもしれません。

しかし、映画に限らず、こうしたベストテン企画は、えてして、多様な作品を挙げたくて、1作家につき1作品を選ぶ人が多くなると思います。つまり、やはり、代表作が1作だけの作家の方が強いのです。


 
以上見てきた通り、『ジャンヌ・ディエルマン』が一位を獲れたのは、作品の主義主張だとか、選考者の配慮とは、あまり関係がないように思えます。これは、様々な要素が組み合わさった、偶発的な一種の「事故」だったのではないのではないでしょうか。
 
しかしそこには、もう一つ見逃せない問題が残っています。

『ジャンヌ=ディエルマン』

 
 

4.そして大事な歴史のこと


 

4a.進化の終わり


 
『ジャンヌ・ディエルマン』が1位を獲ったこと。そこにはもう一つ、重大な理由があるように思えます。それは、映画というジャンルの「進化の歴史」が終わろうとしていることです。
 
この作品は、1975年という、投票から既に半世紀前の映画です。しかも、インディーズ作品で、当時は全く話題にもなりませんでした。このような作品が、多くの「映画批評家」の中の票で、突出して1位を獲ってしまうことが、一番の衝撃だと思えます。
 
シュレイダーが映画の歴史に言及していたことは、非常に重要な意味があります。
 
つまり、映画批評家という、「映画の歴史」に敏感なはずの人たちの意見の集合なのに、この結果には、映画史を作り上げてきた重要な作品が上位に来ていないということです。



映画は1920年代のサイレント映画、1930年代後半のトーキー映画の全盛を経て、色彩映画が出来ました。戦後1950年代くらいまではハリウッド映画が全盛を迎えますが、徐々に新興メディアのテレビに観客を奪われていきます。
 
1960年代には撮影所システムの崩壊と共に、フランスのヌーヴェルヴァーグ等の新しい映画運動が出ました。そして、1990年代後半には、SFXやCG技術によるハリウッド大作も出てきます。
 
こうした映画が進化した歴史の其々の節目ごとに、名作というのが存在します。フォードの『駅馬車』、ルノワールの『ゲームの規則』、ゴダールの『勝手にしやがれ』。こういった「往年の名作」が、ランキング上位から悉く抜け落ちています。

ゴダール『勝手にしやがれ』


 
その中で『市民ケーン』と並んでトップ10に入っているのが、『2001年宇宙の旅』です。これは、映画史を変えた名作の中でも、比較的新しく、SFXの合成技術という、現在のCG技術の先駆けでもあったからでしょう。
 
つまり、「映画に敏感な人」の中ですら、先に挙げたような映画の進化の意識が消えてきているのです。

それはどういうことなのか。

キューブリック『2001年宇宙の旅』




4b.名作映画とは何か


 
私が映画を集中して見始めた90年代末からゼロ年代にかけては、映画が発明されてから100周年(1995年)を迎えたこともあり、「映画ベスト100」のような本が既に沢山出版されていました。
 
そうした本で上位に来るのは、まず、ジョン=フォードの『駅馬車』、マルセル=カルネの『天井桟敷の人々』。そして、『独裁者』や『モダン・タイムズ』といったチャップリンの作品でした。

チャップリン『モダン・タイムズ』


それはつまり、投票者の多くが、これらの作品を映画館で観ていたからです。他に上位にあったのは、ハリウッド製の西部劇や、『巴里祭』や『巴里の空の下』といった戦前のフランス映画でした。これらは、日本でヒットした作品であり、高く評価された作品でもありました。
 
こうした見方に反発するようにして、フランスのヌーヴェルヴァーグと、そこから派生する映画批評が出てきます。日本では蓮實重彦らによって、「映画そのもの」を称揚して、一般的な映画の見方を批判する批評が生まれました。
 
そのことの是非は、ここでは問いません。大事なのは、「名作」というのは、かつて、多くの人が見て、多くの高い評価を受けていた作品だった、ということです。
 
多くの人が、共通体験として映画を観て、そこから高い評価の作品が生まれます。そこには毎週封切りの映画があり、皆が読む新聞の映画欄や映画雑誌がありました。

そうした場によって、映画を創り出す空気が生まれ、技術的な進化を伴った新しく進化した映画、つまりは多くの人に衝撃を与え、高く評価される「名作」がつくられてきました。
 
こうした進化が、2020年代になくなった。それが、『ジャンヌ・ディエルマン』が一位になったことに表れている気がするのです。

ジョン=フォード『駅馬車』



 
こう書くと、それは、ネット配信によって、共通の体験がなくなったとか、話題の「映画を早送りで観る人」の問題と仰るかもしれません。
 
しかし、私はこれは、ネットやSNSの問題だけではないと思っています。なんなら、1970年代からビデオカセットはあり、早送りだってありました。先に書いたように、テレビの台頭や撮影所の崩壊も、映画は吸収してきました。
 
また、こうしたベストテン企画は、順位の入れ替わりはつきものだと仰るかもしれません。ヌーヴェルヴァーグだって、昔の映画のリバイバル再評価の側面があります。しかし、『ジャンヌ・ディエルマン』の1位は、これらと本質的に違うことだと思います。
 
なぜなら、この現象は映画だけの特殊な話ではないのです。別のジャンルで考えてみましょう。



4c.映画に限らない「優れた作品」の問題


 
ここで一つクイズです。私はオペラも好きなのですが、オペラ史上、生前最も評価され、最もヒットさせたオペラ作曲家は誰か、ご存じでしょうか。『カルメン』のビゼー? 『椿姫』のヴェルディ? 彼らの作品は確かにヒットしましたが、違います。
 
正解はジャコモ=マイヤベーアです。彼の『悪魔ロベール』や『預言者』は、パリで大ヒットし、批評家からも大絶賛。10年以上のロングランをしました。ヴェルディも、ワーグナーも彼に強く嫉妬していました。
 
しかし、2024年現在、オペラファン以外で彼のことを知っている人は殆どいないでしょう。音楽の授業でヴェルディやワーグナーは出てきても、マイヤベーアは出てきません。
 
彼は決して一発屋ではありません。トーマス=マンの小説『ブッデンブローク家の人々』(1901年)に、教養のないおばさんが、ピアノの才能を見せる少年を「この子はモーツァルトですわ! マイヤベーアですわ!」と褒めて騒ぐシーンがあります。つまり、19世紀末から20世紀初頭の普通の人々にとって、彼はモーツァルトに並ぶ存在でした。それが、急速に忘れられていったのです。


ジャコモ=マイヤベーア




 
あるいはそのモーツァルトにしても、生前あまり作品が売れず、生活が苦しかったことはよく知られています。では、彼の時代で最も優れた作品と評価され、ヒットを飛ばしていたのは誰か? 
 
モーツァルトは勿論のこと、映画で有名になった宮廷楽長サリエリでもありません。ガッツァニーガやチマローザといった作曲家です。こちらも、教科書どころか、熱心なクラシック愛好家でも聞いたことがない人が殆どでしょう。
 
ここで重要なのは、マイヤベーアやガッツァニーガは、ワーグナーやモーツァルトより、劣っていたというわけではない、ということです。
 
現在の批評家は、音楽の構造をみて、モーツァルトが優れている理由を、いくらでも説明できます。しかし、それはあくまで後世の人間から見た評価にすぎません。

今私たちが優れていると思っている点は、当時の人々にはどうでもいいものでした。そして、当時の彼らが何にこだわっていたかを、今の私たちは理解できません。
 
おそらく、普遍的に優れた芸術というものは存在します。しかし、私たちが今普遍的だと思っているものが、本当に普遍的かどうかは分からないのです。
 
もし、タイムスリップして、現代人が当時の人に「モーツァルトこそが普遍的な天才であり、ガッツァニーガなんて二流の音楽家だ」などと言ったら、張り倒されるでしょう。

当時の人々にも名作の基準と理由があって、ガッツァニーガが普遍的に優れていると思ったからこそ、熱狂したわけです。それこそが、作品が生まれた時を目撃し、共に生きた人の実感だったのです。
 
こうしたことは、映画でもこの先起こります。今あなたが大好きで名作だと思っているディズニーや、マーベルの映画は、未来の人には、なぜこんなものが面白いか理解できなかったり、そもそも忘れられたりしている可能性があるということです。
 
そんなことは、当たり前だと思うかもしれない。しかし、そう頭で思っている人ほど、自分の価値観が全く通じなくなった時に、衝撃を受けます。自分が本当に愛して優れていると思っていたものが、何の価値もなくなることは、存在を揺さぶる痛みを与えるからです。

ドメニコ=チマローザ




4d.「ジャンルの進化」が終わる本当の理由


 
 
少し話がそれました。整理しましょう。ジャンルの歴史には二種類あります。
 
一つは、「進化する歴史」。それは、あるジャンルが生まれ、その特徴を生かした多様な作品が生まれてくるのを一緒に歩むものです。そこには、作品を発表する場があり、作品の制作を巡って交流する人々がいます。
 
そしてもう一つは、「発掘される歴史」。それは、あくまで昔の作品が存在しているだけです。その中から、後世の価値観によって、「名作」が選びだされ、その名作や名作家にまつわる歴史や当時の人々の様子が掘り出されて、作品を補完して、一つの流れとして説明できる「歴史」となります。
 
『ジャンヌ・ディエルマン』が、批評家アンケートで1位を獲れたのは、映画自体が「進化する歴史」から、「発掘される歴史」へと移行する兆候のように思えます。マイヤベーアの音楽と共に生きてきた人々が信じるような「歴史」から、モーツァルトの作品を巡って後世の人間が語るような「歴史」への変化です。
 
それゆえに、現在の価値観で「有用な名作」だと思える作品が選ばれ、「映画史」の中でヒットしてきた作品が上がらなくなったのです。

シュレイダー達が違和感を表明したのは、自分達の歴史はまだ生きていると感じていたからでしょう。

そして、このような断絶が生まれるということは、かつてのような説得力のある名作が、作られなくなってきているということでもあります。つまり、進化する歴史の終わりは、そのままジャンルの終わりに結び付いていくと、私は思っています。



 
ではなぜ、そんなことが起きているのか。端的に言って、映画と共に生きてきた人たちが、死んでしまったからです。
 
「進化する歴史」で重要なのは、「名作」だけでなく、それらの周りにあった無数の駄作や凡庸な作品であり、作品を創ったり楽しんだりする人の「場所」であり「空気」です。そうした場を創りあげていた人たちが死に、場所や空気が消えて、進化が止まったということです。
 
「映画の死」は、私が映画を観始めた90年代末にも言われていました。しかし、結果としてそこでは起こらなかった。多分それは、映画が始まった基準を1895年の誕生ではなく、1930年代の最初のトーキー映画最盛期に合わせるべきだったからだと思います。
 
90年代末には、まだ戦前のトーキー映画や、人によってはサイレント映画も封切りで観た人が生きていました。彼らはシュレイダーのように、映画の進化と共に生きて、これが映画史的に常識な名作だ、という共通意識(それに反発する人も含め)を持っていました。

それは、ヌーヴェルヴァーグ世代とも同じでした。しかし、ヌーヴェルヴァーグ世代の映画作家は2010年代に入って次々に亡くなり、2022年には、一番の象徴でもあったジャン・リュック=ゴダールも亡くなりました。
 
ある一つのジャンルが人間の寿命以上に生き延びるのは難しい。それを成立させていた場や、背後にあった前提としての常識が、人の死とともに徐々に消えていくからです。


 
例えば、ギリシア悲劇や新聞小説というジャンルの最盛期も、せいぜい100年位です。それらがなくなっても、演劇や文学という大きなカテゴリーは無くなりませんし、演劇や小説は作られ続けています。
 
それと同じように、映像作品というカテゴリーは無くならないでしょう。しかし、フィルムで撮られ、映画館で公開される、90分前後のフィクションという形式だった「映画」というジャンル、2024年の今の私たちが思う映画というものは、徐々に消えていく方向にあると思います。
 
以前私は、ヴィクトル=エリセの2023年の『瞳をとじて』を若々しい傑作と絶賛しました。その考えは今でも変わっていません。しかし、それは、作品のみの内容であって、映画のジャンル全体の流れを変えるものではない気がします。あの作品は映画の「黄昏の最後の輝き」のようなものだと思っています。




4e.映画はこれからどうなるか


 
 
このように書くと、今の映画が好きな方は反発されるかもしれません。そんなことは昔から言われてきたとか、誰それの作品は凄いとか、まだ映画は死んでいないとか。そうした方の意見は尊重します。

そういう声が上がるなら、まだいいのです。だって、あるジャンルの進化が止まって死ぬ時とは、そのジャンルの死を誰も嘆かなくなる時ですから。今、かつての名作に匹敵する新作のオペラや新作のフレスコ画が出てこなくても、誰の心も痛まないように。
 
私には、現在の2024年の映画は、丁度100年前の1920年代のオペラに重なって見えます。
 
1926年のプッチーニの『トゥーランドット』を境に、メジャーなオペラと言えるものはほぼなくなりました。シェーンベルク、ヒンデミット、ベルク、オネゲル、プーランク等、個々に優れたオペラはあります。ですが、それらがオペラの歴史を進化させたと考える人はいないでしょう。
 
 

ベルク『ヴォツェック』
かつての夢のようなオペラとは違う
リアルな兵士の悲惨なドラマ


なぜオペラの進化が終わったかと言えば、まさに映画が台頭したからです。映画に比べて、鈍重で大げさで保守的なオペラは、若い人たちの心を掴むことはできませんでした。
 
それは、今の映画に対する、動画(生成AIを含めた)の関係と同じように思えます。


 
これから映画に何が起こってくるのでしょうか。私は預言者ではないので、未来を当てることはできません。しかし、過去の例から、何となく推察することはできます。
 
一言で言うと、伝統芸能化です。まずは、創作を志す人自体が減り、新作が減ります。ここで重要なのは、ある日突然全く途絶えてしまうのではなく、「昔あったジャンルの形式を模した新作」は、細々と作られ続けていくということです。それこそオペラや歌舞伎のように。

そして、「名作」のレパートリー化がおきます。でも、それは決して怖いことではないのだと思ってもいます。オペラや宝塚歌劇、印象派の展覧会、落語。こうしたものを楽しむように、人々は過去につくられた90分の映画を楽しむようになる。
 
そして、別のジャンルの養分となります。例えば浮世絵は、芝居小屋とかの場末から生まれ、やがて葛飾北斎や歌川広重のような名匠が出ました。明治時代には、そうした場が徐々に消え、歴史的な役目を終えました。
 
しかし、同時に、巨匠がいなくなった衰退期に、海外に輸出され、新たな芸術として評価され、ジャポニズムとして、印象派等新しい絵画のジャンルの誕生の一要素になりました。次にどんなものが来るかは想像できませんが、そうしたことは、映画にも今後起こるでしょう。



5.おわりに


  
私自身は今の映画や、映画界、映画産業については、冷静な気持ちでいます。外側から見ているのですから、そうしたものに対して、繰り返しになりますが、否定的な気持ちも、悲観的な気持ちもありません。続くならご同慶の至りだし、終わるなら、笑顔で見送ることでしょう。
 
映画というジャンルは終わっても、人生は続きます。私はこれからも、映画について楽しく書きます。一生分の素晴らしい作品を観てきたのですから、何の後悔もありません。
 
ただ、私が映画を観始めていた頃、確かにそれはまだ生きた芸術でした。まだ巨匠たちが生きていて、彼らの息吹を浴びて、私は、映画が進化すると信じていた。私が映画を特別に愛したのは、そういう生きた芸術を感じることができたからでした。


 
たぶん、あなたや私が死んでも、私たちが愛した作品は無くなりません。しかし、それらの作品を輝かせていた愛のようなものは、確実に一つ、この世から消えます。
 
そして、愛が一つ一つ消えていった後、その作品が生き残るかどうかは、ある種の歴史の偶然しかありません。
 
そうして、歴史の河の暗い流れの中に飲み込まれていく。おそらく、歴史というのは私たちの愛を完全には再現できません。

だからこそ、私たちは、やがて来るジャンルの終わりや消失を恐怖したり、嘆いたりせずに、今を愛するべきなのでしょう。アイドルに懸命に声援を送るファンのように、この瞬間を楽しむことが、作品とそれを愛する私たちの生を輝かせることなのでしょう。
 
そうしたことまで考えさせてくれたのが、この「史上最高の映画」のアンケートなのでした。



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイ・批評で
またお会いしましょう。


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