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優雅に貴族的に生きること -映画『アブラハム渓谷』の魅力

  
貴族的、というのは、悪い意味にも使われますが、私はどちらかというと、良いことだと思っています。

育ちが良く、世の出来事に超然としていること。気品に満ちて、どんなときも決して感情を表立てずに、エスプリで優雅に流すこと。
 
勿論、これはイメージの問題であって、実際の貴族がこのようなわけではないのは確かです。逆に言うと、こうしたイメージを骨の髄から身に付けた人間は、もう貴族と言っていいのではないかとも思います。
 
貧乏貴族とも言いますが、貴族とは育ちの問題であって、血統の問題ではないのだ、という風にも思っています。だからこそ、生き方が大事になってくるというか。
 
映画の世界で、そうした意味での貴族的な映画を撮る監督は誰か、と聞かれれば、私はポルトガルのマノエル・デ=オリヴェイラ監督を挙げたいです。彼の映画を観て、私は貴族的に生きるというのがどういうことかを、学んだ気がします。


 
マノエル・デ=オリヴェイラは、1908年、ポルトガルのポルト生まれ。裕福な実業家の子供であり、若い頃はカーレースに熱中し、俳優としても活躍していました。

映画監督を目指すものの、1940年代から長く続いたポルトガルのサラザール独裁体制下では活動の場所を失い、1980年代、70歳を超えてから、ようやく国際的に活躍するようになります。

マノエル・デ=オリヴェイラ


 
1990年代以降、80歳を超え、普通なら引退してもおかしくないのに、年一本のペースで、長編映画(短編ではありません)を撮り、2015年、なんと106歳で亡くなりました。
 


 
オリヴェイラの作品は、作中の人物からして、貴族的です。

どろどろとしたドラマの作品は多いですが、登場人物は、みな、優雅な微笑みを忘れず(勿論、ちくちくと相手をいたぶるような皮肉も忘れず)、基本的に生活には困っていなくて、瀟洒な館でサロンを開いて、おおよそ浮世離れした哲学的な対話を交わします。
 
勿論、貧乏人を憐れむことなんてしません。自分たちが、貧困や窮乏によって脅かされていないことに対する、後ろめたさのようなものはあっても、それを憎しみの道具には使ったりしない。

まあ、そういった態度で、感情的に硬直してしまうこともあるけれど、落ち着き、人を軽蔑しない知性が、現代には貴重な徳のように思えるのです。


 
彼の作品の中でも、3時間を超える大作『アブラハム渓谷』は、そんな特徴が最も美しく表れた作品の一つです。


物語は、一言で言うなら、現代のポルトガル版『ボヴァリー夫人』です。

フランスの作家フローベールの小説『ボヴァリー夫人』は、エンマという、田舎医者に嫁いで欲求不満を抱えた人妻が、不倫に走り、借金を重ね、破滅を迎えるストーリー。

この映画も、同じエマという名前の貧しい少女が、裕福な農園主で医者カルロスの元に嫁いだものの。。という風に進みます。
 
しかし、フローベールの小説が、卑俗さと辛辣さを隠し持った強烈なリアリズム小説だったのに対し、この映画は、なんとゆったりとしていることでしょう。撮り方自体が貴族的なのです。


 
広大な葡萄畑を有する館で、エマや夫や、その友人たちの交わす、愛や知性についての対話の美しさ。良く通る声のナレーションが、映像に絡みつくようにして、説明します。
 

エマは噛みつくように微笑んだ。メロ家の姉妹は、確実に彼女が恐ろしい女になると確信した

このナレーションと同時に、まさに、エマがカメラを見て歯を剥き出しにして笑うその、優雅なのに獰猛な獣のような姿。ナレーションによって、こうした美しい特徴は強調され、露骨な部分は映像抜きで処理されます。夫に内緒で何度も不倫に走っても、何か、エマには超然としたオーラが漂っています。


そして、まるで儀式のような、不可思議な細部。この映画はエマを時代に沿って二人の女性が演じます。

その二人が、驚くほど似ていない。最初の頃のエマを演じたセシル・サンス・デ・アルパは、卵型の顔で、どこか、はすっぱで陽気な魅力があります。
 
それが、カルロスがエマの叔母の葬式で再会する時、喪服姿のエマが振り返ると、面長で、貞淑な雰囲気の女優レオノール=シルヴェイラに変わっている。

ナレーションは、エマが以前よりも苦悩を美に加えていたと、しれっと説明します。この優雅な手つき。


更に、使われる音楽は、なぜか『月の光』縛りで、ベートーヴェンやドビュッシーのピアノ曲『月の光』が使われる。この不思議さ。
 
こうした細部と、美しい葡萄畑と、広々とした屋敷での対話。こういったものが、苦悩を抱えながらも時を過ごし、人生を過ごすことの素晴らしさを私たちに味合わせるのです。
 
そして、ラストの方は、エマが追い詰められていくのに、不思議と、画面が広がっていくような感触をもたらします。

最後の挨拶に、オレンジ畑を巡る時の、宙に浮いているような幻想的なカメラの動き。そして、簡素なラスト。まさに、貴族的に生きることの、美しさ、簡潔さ、本当の良さが詰め込まれています。


 
貴族的であることは、お金持ちでいることではありません。自分にとって足るを知るということ。苦悩を表面に露呈せずに、知性を以って処理をして、優雅に生き続けること。そのうえで、自然や陽の光を浴びて素直に喜びを感じること。

こうしたものが、『アブラハム渓谷』にはあります。映画の最後の言葉が、まさに、そうした良く生きることの倫理を、適切に表しているように思えるのです。
 

大したことは書いていないけど、生きていることは美しい、それだけは一生懸命書いたつもりよ



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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