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真珠色に輝くメロドラマ -映画『愛情は深い海の如く』の素晴らしさ【エッセイ#56】

私はあまりジャンルで映画を観ることはありません。しかし、強いて言うなら、メロドラマというジャンルには惹かれるものがあります。
 
なぜなら、人間の感情そのものが強く動くジャンルだからです。全てがそうとは言いませんが、本当に優れているものは、泣かせるとか、感動させる以上に、存在をゆさぶるような強い力を以って、こちらに迫ってきます。


 
そんなメロドラマの中でも、「時」というものの美しさを強く感じさせる作品があります。それが、『愛情は深い海の如く』というイギリス映画です。
 
この映画は、『The Deep Blue Sea』というイギリス人作家の戯曲を映画化したものです。1950年代にも、アナトール=リトヴァク監督で映画化されています。そちらは未見ですが、2011年に、カルト的な映画監督のテレンス=デイヴィスによって、レイチェル=ワイズ、トム=ヒドルストン主演で再映画化されました。その映画が、まさに絶品のメロドラマなのです。



1950年代のイギリス、ロンドン。レイチェル=ワイズ演じる女性へスターが、部屋でひとりガス自殺を図ります。そんな彼女の回想。

彼女は、判事ウィリアムの妻でしたが、ヒドルストン演ずる、元空軍パイロットとのフレディと出会って、恋に落ちます。
 
マザコン気味で杓子定規、年老いたウィリアムと違う、若いフレディとの肉体関係に溺れるへスター。しかし、彼は戦争で心に傷を抱えていて・・・という内容。
 
美しい台詞が流れる作品ですが、ドラマ自体はそれ程、奇を衒ったものではありません。おそらくは、大体の人が予想のつく内容と終わりですし、3人の行く末は、ここでは、特に語りません。この作品は、物語というより、役者の演技と細部が、とにかく素晴らしいのです。


 
レイチェル=ワイズの、思いつめた暗い表情。トム=ヒドルストンの、やんちゃさと痛みが混じったスマートな存在感。そして、特筆すべきは、ウィリアムを演じたサイモン・ラッセル=ビールの、抑制されて、ジェントルかつ、人間味のある演技。
 
シェイクスピアを生んだイギリスは演劇の国、とは使い古された言葉ですが、詩的な台詞を自然にドラマにできるのは、イギリス英語と、イギリスの役者だけだ、などと暴論を言いたくなります。

そう思うくらい、一つ一つの細やかな感情が、彼らの言葉のやりとりによって、優しさと苦みをもって、画面からこちらに伝わってくるのです。



全編が薄く紗にかかったような、霧に包まれたように輝いている撮影も素晴らしい。 そして、ドラマの本筋から零れる数々のシーンが美しいです。

例えば、へスターとフレディが、パブで友人たちといるシーン。彼らはジョー=スタッフォードの流行歌『ユー・ビロング・トゥ・ミー』をみんなで歌います。

そのあまりにも温かい親密さと、心地よさ。そして、へスターとフレディが踊る場面に自然につながる。スタッフォードの歌のエキゾチックな歌詞も、まさに、このイギリスの「戦後」の恋を表しています。

ナイル川沿いのピラミッドを見て
熱帯の島で日の出を眺める
これだけは覚えていて、愛しい人
あなたは私のもの
 
アルジェの古い市場を見て
写真とお土産を送ってほしい
夢で会うまで覚えていて
あなたは私のもの




そして、思いつめたへスターが、ひとり、地下鉄の駅に佇むシーン。

彼女はトンネルの暗い奥を見つめます。すると、急に爆撃音が響いて砂埃が落ち、そこにアイルランド民謡『モリー・マローン』を歌う男の声が響いてきます。
 
カメラがゆったりと引いていくと、照明が落ち、カット無しで、線路に寝る家族や、ホームに佇む人々の姿が映ります。ここは、へスターの回想の中、ロンドン空襲で、地下の駅に避難した時のことです。

灯火管制で薄暗い駅の中、恐怖を紛らわせるかのように、人々は『モリー・マローン』を静かに口ずさみ、カメラは更にゆっくりと横移動をして、へスターと、ウィリアムの寄り添う姿を映します。

そしてその瞬間、現在のへスターの姿に切り替わります。
 
戦争の恐怖と、それに耐える人々、過去の傷が、説明台詞無しに伝わり、幻のように仄かに画面が輝いている。「時」そのものが真珠となって、光を当てられて、鈍く輝くかのような、美しい場面です。




この二つのシーンの美しさは、どこから来るのかと言うと、まさに映画自体がメロドラマであること、そして、これらの場面でドラマが止まってしまうことにあります。
 
誰かを愛し、誰かと別れること。それは、ありふれて、誰もが体験することです。メロドラマとは、どれほどドラマチックであっても、ありふれたものです(だからこそ、嫌う人も一定数います)。
 
しかし、現実には、痴話喧嘩や別れの場面以外にも、その人たちにしか味わえなかった、一緒に過ごした時間があります。そこにドラマが無くても、かけがえのない、忘れ難い時間が必ず存在する。
 
それをフィクションの、たった二時間の中で味あわせるのは難しい。しかし、テレンス=ディヴィスは、そこで「歌」を使います。

一緒に歌を歌っている時間は、ドラマは止まる。でも、その時間は、必ず一緒に過ごした時間となる。だからこそ、その歌と時間が、かけがえのないものとして、メロドラマの中で輝くのです。


 
ディヴィスは、非常に理知的な映画作家で、こうした歌を歌う場面や詩的な回想を、屡々使います。処女作の名作『遠い声、静かな生活』他、自伝的な作品もあるようです。

私は彼が、詩人のエミリ=ディキンソンを題材にした映画を見たことがありますが、いくつかの美しい場面はあるものの、映画としての魅力が欠けているようにも思いました。
 
おそらく、彼は、自分のやりたいことをやろうとすると、思い入れが強すぎてどうしても硬直した作品になり、通俗的な作品を自分なりに処理しようとするときに、画面が力強くなるタイプのように思えます。それゆえに、メロドラマとの相性がいいのでしょう。もっとこうした作品を残してほしかったですが、2023年11月に亡くなりました。


 
メロドラマというのは、通俗的でありきたりだから悪い、というものではありません。人間の感情が動く瞬間を捉えられる。そして、それとは対照的に、ドラマが動かなくても、決して忘れることのできない瞬間を描くことができる。

人生はドラマの連続であり、つまりは、ドラマがない凪の瞬間もまた、私たちは生きていかなければいけない。その時をいかに過ごすかで、人生のかけがえなさも、人によって変わる。

優れたメロドラマは、そんなことを考えさせてくれます。その中でも『愛情は深い海の如く』は、真珠のように輝く、まさに珠玉の一本なのです。


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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