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軽やかに、緩やかに -尾崎翠の小説『第七官界彷徨』の美しさ


 
 
【水曜日は文学の日】
 
 
小説の喜びの一つに、自分の日常とは違う感覚を味わえるということがあります。
 
大正・昭和初期の作家、尾崎翠が1931年に発表(単行本は1933年)した『第七官界彷徨』は、そんな感覚の美しさを軽やかに味わえる、名作短編です。




よほど遠い過去のこと、秋から冬にかけての短い期間を、私は、変な家庭の一員としてすごした。そしてそのあいだに私はひとつの恋をしたようである。


 
主人公の小野町子は、詩人志望で「人間の第七官にひびくような詩」を書くことを目指して、勉強に励んでいます。第七官とは、人間の五感や「第六感」を超えた感覚を、彼女が命名したもの。
 
精神病院に勤務する長兄の小野一助、苔を研究している次兄の小野二助、そして、音楽学校を受験するために勉強している従兄の佐田三五郎と同居しています。
 
色々と誇張や泣き言の多い芸術家肌の三五郎、苔の繁殖を「植物の恋愛」と表現して研究するひょうひょうとした二助、堅物というか神経質な一助らとの生活が、緩やかに続いていきます。


『第七官界彷徨』河出文庫版表紙




この作品の魅力は、生き生きとした人物のやり取りと、そこから立ち上る「感覚」の刺激の心地よさでしょう。
 
各々専門分野が異なる変人たちの会話のほのぼのとしたおかしみ、その中で自然体に生活する町子の家事や、男たちの生活する時間が、何の気負いもなく記されていく。
 
二助や三五郎が町子の髪を切ってあげる場面、そして、町子と隣人の少女との井戸端での、櫛や靴下を介した無言のコミュニケーションの軽やかさ。
 
二助の培養する苔たちが発する臭気、その二助の香水の匂い、一助の難解な精神分析学の本で空想する寸劇、そして三五郎の奏でるピアノの音楽、こうしたものが混じって、町子の中に溶け込んでいく。
 

けれど三五郎のピアノは何と哀しい音をたてるのであろう。年とったピアノは半音ばかりでできた影のうすい歌をうたい、丁度粘土のスタンドのあかりで詩をかいている私の哀感をそそった。

そのとき二助の部屋からながれてくる淡いこやしの臭いは、ピアノの哀しさをひとしお哀しくした。

そして音楽と臭気とは私に思わせた。第七官というのは、二つ以上の感覚がかさなってよびおこすこの哀感ではないか。そして私は哀感をこめた詩をかいたのである。


 
「苔の恋愛」だとか「分裂心理」だとか、哀感に満ちた歌だとかに触れているうちに、兄たちの風変わりな恋愛が、染み込むように町子と読者に浸透し、町子もなぜだか失恋した気分になったり。
 
そして、柳浩六という男も登場し、事件とも言えない短い出来事が通り過ぎる中、ふっとレコードの針が上がって回転が止まるように、この短編も終わるのです。




興味深いのは、この作品で町子が書く詩が一回も出てこないこと、そして、結局のところ「第七官」というのが何を指すのか、さっぱりわからないことでしょう。
 
先に挙げたような部分で第七官について町子は考えつつ、別の箇所ではその考えも揺らいだりして、彼女の詩作はうまくすすまない。そもそも何を書いているか読者には分からないわけで。
 
つまり、重要なのは、彼女が書きつける詩の言葉ではなく、感じるものであって、作品全体を読者が読むことで、詩以上の何かの感覚を読者が味わうような仕組みになっている。その過程こそが、第七官であるということなのでしょう。
 
あるいはよく言われることですが、この作品は「第七」に到達するまでの、軌跡とも言える。
 
「一」助、「二」助、「三五」郎、町子が創る詩=「四」、そして最後に出てくる柳浩「六」。
 
こうした仕掛けは当然作者が意識して、付与していたことでしょう。言葉で語りえない、言葉以上のものにどうやって到達するかという意味でこの作品は、日本の戦前のモダニズム作品の中でも出色の出来の作品になっています。




作者の尾崎翠は、1896年、鳥取県生まれ。高等学校を卒業後、雑誌に投稿し、1919年、東京に出て日本女子大学国文科に入学。しかし、現役の女子大生が商業文芸誌に発表したことが問題になり、翌年退学します。
 

尾崎翠


東京で暮らしつつ、作品を雑誌に発表し続けますが、やがて鎮痛剤の副作用に苦しみ、1932年、兄に連れられて鳥取に戻ることに。
 
その後は、短いエッセイを雑誌に残したのみで、故郷鳥取で過ごし、1971年、74歳で死去。死後、再評価が進むことになります。




尾崎の作品は、1920年代から30年代初頭の日本のモダニズム運動に影響を受けた作品と言えます。
 
特に映画。尾崎は映画評も手掛けており、チャップリンが大好きだったとのこと。彼女が東京にいた1926年には、衣笠貞之助がアバンギャルド映画『狂った一頁』を製作しており、脚本は川端康成が手掛けています。
 

衣笠貞之助『狂った一頁』


同時期には、その川端の『浅草紅団』(1930)、あるいは横光利一の『機械』(1931)、梶井基次郎の『檸檬』(1931)といった、「新感覚派」と呼ばれるモダニズム作家たちの傑作が一気に出てきています。

1931年に『第七官界彷徨』を執筆した尾崎翠も、従来の言葉以上の感覚を掴もうとする、こうした新時代の感性を持った作家でした。
 
とはいえ『第七官界彷徨』は、実は彼らの作品に比べて映画的なモンタージュの痕跡が薄く、寧ろ、先の聴覚と嗅覚の融合のように共感覚的な、ウィリアム・ジェイムズらの心理哲学の影響を思わせるのも面白いところ。
 
つまり、彼女にとっての映画は、そのまま真似るものでなく、どちらかというと、通常の文学にとどまらない感覚を広げる媒体としての役割が大きかった気がします。




それにしても、これ程優れた作品を残しているのに、尾崎が筆を折ってしまったのは、一体なぜなのか。
 
実のところ、彼女が実家に帰った時期は、丁度日本のモダニズム自体の曲がり角でもありました。
 
梶井は1932年に病死。1933年にはプロレタリア文学のホープ小林多喜二が、警察の取り調べ中に死亡。そして戦時色が濃くなる中、横光や川端はそれぞれ作風の転換を余儀なくされていきます。
 

梶井基次郎


こうした事柄について彼女は何か思うことがあったのか、恐らくそれは永遠の謎なのでしょう。
 
ただ、ほんのわずかな時期、いっぱいに息を吸い込める場所で、尾崎の感性は時代の様々な空気を吸収して、忘れ難い感覚の傑作が生まれた。
 
その意味では、『第七官界彷徨』は、一つの青春文学の傑作でもあり、また私たちの生きる感覚そのものを巡る作品でもあるのでしょう。
 
 
 


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。


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