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勉強に対するスタンスは人それぞれでもっと自由でいいはず

勉強が楽しい。勉強を楽しむ。この感覚は、受け入れられる人とそうでない人がいると思います。

例えば、勉強が学校教育の範囲に狭められていたり、ひいては学歴などポジションのための存在に化ける。現実社会で厄介な形で紐付く要素が多すぎる。

もう少し自由に「勉強」を捉えられないかな?

そう考えた時期を経て、自分は「自由」「勉強」を全面に押し出すようになりました。そこから現在も少しずつ思考が変化しています。

勉強に対してどういう感じで捉えたら良いのか。自分なりの指針みたいなものを今回は書くことにします。

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勉強の意味を捉え直してみる

この問題の根幹を想像するに、勉強を学校教育の範囲に無理矢理で収めてしまうことにあるのかなと。生涯勉強という言葉は個人的に真実だと思うのと、同時にそれをしているから偉いという訳でもない。

繰り返しになるけど、勉強という存在は自由な存在であるべきだと思うのです。

勉強のプロセスは、わからないことに直面する(インプット)と、自分なりに解決する(アウトプット)の両輪で成り立つこと。その上で、アウトプットにこそ本質があると考えています。

そして、このアウトプットは面白さの源泉でもあると思います。

例えば、ブログという形でアウトプットを表現することも立派な手法です。ブログの書き方は学校では習いません。社会に出てから身につけたこと。それでも、私はこのブログに楽しさのひとつを見出しています。

これが勉強における「自由」の意味合いだと、私は捉えています。

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学校の勉強が自分に合わないなら

学校という存在だけで「勉強」を捉えるのは勿体無いかもしれません。

なぜなら、学校の勉強という形が合わない人が一定数います。それは単に学校教育というスタンスの上にある勉強が合わないだけで、ならば制約こそあれど、路線を自ら外してしまえばいい。

自分は学校という体制上の勉強が性に合いました(逆にこれくらいしか性に合わないような学生でした)。ただし、それは結果論に過ぎないです。

そうして自分の路線を考え直すことも、経験を踏まえた勉強だと思います。自分のカードを理解してそれをどう最適化して使うか。そこでも、勉強の素養が試されるように思います。

勉強の使い道には多様性があります。これまでの学歴だけのポジション取りだけに使うのではなく、人生を豊かにするために勉強を使い倒したいです。

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これまでの反省とこれからの話

これは自己反省も兼ねて。私は理系(学問)を使い倒す道を良くも悪くも早く決め過ぎた(その先に現在の「数値解析」のお仕事がある)。

その判断が今の仕事にも繋がるから、結果オーライだけど、時期早々に捨てたことも多い。主に「自分には無理だから」と避けてきた物事です。

そして、そこには一定数の承認欲求が絡んでた。認められたいという気持ちが先走り過ぎていた。自分が楽しいと思える形で、勉強を追求していきたい。他人と比較することで満足するのではなくて。

自分が結果を出して、ひいては成長を実感できれば。

自分がどうしたいか。その問いを解決するための勉強をこれからも続けていきます。それが自分の幸福論に繋がると信じて。

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おわりに

勉強を楽しむこと。結局は前に書いたような記事の再確認ではありましたが、今年の後半からブログの再構築を進めてきて、確からしく芽生えたことです。

伝えたいことは、勉強という言葉は変わらなくても、視点を変えれば自由に形を変えられるということ。

人それぞれが「勉強」に最適な意味付けを持てたら。勉強には本来制約など存在しないのですから。そして、生涯勉強ですから。

大人(社会人)になってから、勉強の世界観から遠のいていた。だからこそ、再始動を掛けていけたらと思う今日この頃です。

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最後まで読んで頂き、ありがとうございます。この記事があなたの人生の新たな気づきになれたら幸いです。今後とも宜しくお願いいたします♪♪
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