ブンの死⑨
九月三日 _鈴の音
晩年の老犬は、人間でいうところの認知症だった。兆候を挙げればいくつも例はあるが、この犬に至っては徘徊が顕著だった。
放っておけばゆうに二、三時間、ひとときも休むことなく家中を歩き回るのだ。はじめの方は、用を足したいとか、母はどこだとか目的があるに違いないが、そのうちそれさえ忘れてただただ一心に歩く。おいら、歩く。
私たちも彼の夢遊の冒険癖にはすっかり慣れて、特段気にかけることもないのだが気を抜いていると、床にころりと糞があったり、尿であったりがトラップのように仕掛けてあり、それにまんまとひっかかる。当の老犬は、出すものを出せばすっきりするのだろう、いつの間にか疲れ果てていつもどこかで寝落ちしている。
そういうわけであったから、いつ頃からか老犬の首輪には小さな鈴をつけてやるようになった。猫鈴のような、本当に小さな鈴。小さな犬が家の中のどこを歩いているのだかわからなくなる時は、その鈴の音が彼の所在を教えてくれる。
歩き回るときは足音とともにリンリンと小気味よい音がついてまわり、音がやめばどこかで眠っているのだなという合図になる。犬が寝ぼけに身体を振ればリリリリンぶるぶるぶるっと音がして、ああ、あの辺りで眠っているのだなと見当がつく。
鈴の音は、私たちにとっての生活音だった。
今でも時々、鈴の音が聞こえるような気がする、と母は言う。おそらくは習慣からくる決して聞こえる筈のない幻聴だろうが、あの鈴の音が事切れた切なさは言葉にならない。
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