読書感想文(403)ひろさちや『道元・正法眼蔵』(NHK「100分 de 名著」ブックス)
はじめに
こんにちは、笛の人です。
読んでくださってありがとうございます。
今回はまた100分de名著シリーズ。
今まで気になりつつ勉強できていなかった『正法眼蔵』です。
私が仏教に関心を持つようになったのは岡潔のエッセイがきっかけですが、岡潔は『正法眼蔵』を絶賛しています。というか、これだけが正しい、といった言い方をしていた気がします。
感想
全体的に勉強になったのはもちろんなのですが、わかるところだけがわかりやすく解説されているように感じ、『正法眼蔵』を理解したようには思えませんでした。でも少しずつ理解していくしかありません。岡潔も確か、理解するのに18年かかったと言っていたような気がします。
たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。
これは『正法眼蔵』の引用。あるがままを見る、ということです。
著者のひろさちやさんは、病気の時には病気をしっかりと生きればよい、といった例を出しています。
なるほどなあと思う一方、諸行無常との関係が気になりました。
これまで勉強してきた仏教で考えると、薪即灰灰即薪、という方がしっくりきます。それぞれの関係、位置づけが気になるところです。
わたしは自力と他力を説明するときに、インドのヒンドゥー教の神学で使われている「猿の道」と「猫の道」の譬え話をします。まずは猿の道です。敵に襲われたとき、母猿は子猿を助けます。そのとき、子猿は母猿のお腹にパッとしがみつく。子猿は母猿に「しがみつく」ということを自力でやっていきます。
対して、猫の道はどうか。猫の場合は、母猫が子猫の首根っこをくわえて運んでいきます。母猫がくわえてくれるので、子猫は母親にしがみつく必要はありません。これが他力です。
わかりやすくて良い譬えなので覚えておきたいと思いました。
はなにも月にも今ひとつの光色おもひかさねず、
これも先に出てきた「あるがままを見る」ということです。
「こうならもっと美しいのに」などと言わず、現前しているものを見るのです。
岡潔がよく引用している道元の「春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さへて涼しかりけり」という歌も同じだと思います。妙観察知ですね。
風は常住であり、あらゆるところに充満している。しかし、その本性を観念的に「ある」と理解していてもだめなのです。やはり、扇であおぐことで風が起き、それによってはじめて、そこに風があることが分かる。これが修行です。
これもなるほど、と思いつつ、これまで学んできた仏教とは異なる気がします。扇がなければ分からないものでしょうか。それを分かるようになるのが悟りだというイメージでした。しかし、道元はそもそも「悟り」の中に生きているという話がありました。
「一切衆生悉有仏性」を「一切は衆生なり、悉有は仏性なり」と読んだという話。
今きちんと理解できていない気がしますが、大事な部分のような気がします。
著者のひろさちやさんは、「今を生きること」の大切さをこの書物から読み取っているように思います。終活なんてしなくていい、といった話もありました。しかし、やはり私はここに賛同ができずにいます。
心身脱落を諸法無我と捉え、諸行無常を踏まえれば筋が通っているように思います。それによって人々は救われると思います。
しかし、作者が「あとがき」で述べている「楽しく生きるための仏教」では人々は救われないのではないか、と思います。なぜならそこには自我への執着があると思うからです。
仏教による救いというのは、現代的価値観では苦であると捉えてしまうことを苦と捉えずに済むということだと私は思ってます。
「楽しむ」というプラスの感情への推進は、また執着を生んでしまいます。
本書に書かれていたことを使って説明するなら、「楽しい」があるから「楽しくない」があるのです。
おわりに
読み終えてどうもしっくりきていないのですが、それはつまり次の学びへの原動力になります。
今年は最低でもあと一冊、『正法眼蔵』に関する本を読みたいと思います。
ということで、最後まで読んでくださってありがとうございました。