縦軸と横軸
もともと母が発会した「パドマワールド」は、ヨガと瞑想の会であるが、父が倒れた後は、ヒーリングの会だった「真理を学ぶ会」と半ば強制的にひとつになったような格好にあった。しばらく、ぎこちなさはあったと思うが、現在( 2016年10月時点 )は良い意味でひとつの方向性を指し示し始めていると思っている。
では、実際に何をしたいのかと問われれば、それは、今生を意味あるものとするために、自らの内側にその智慧を見出し、強く生きるための軸をそれぞれに自らに打ち立てたい…と言うことが、その答えである。
そしてその方法は瞑想である。それ故に、この智慧を自らに求める瞑想と真我の探求を深めること、そして、この智慧を現象世界に活かすための勉強の場を提供したいのである。より具体的には、精神世界を俯瞰できる視座の獲得と、生死を超えて、自らをコントロールする力を養うことである。
ある時期から、この活動をより具体的に進めようと、パドマワールドでは研修会を開くことになり、真我の探求を「縦軸の瞑想」と位置づけ、その為の講義と瞑想を行った。また、それに対して、それぞれの次元を「横軸」と称して、その各階層における理解を深め、精神世界を俯瞰できるようにカリキュラムを組んだのだった。
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過去世のイメージ
その一環として、母の誘導による過去世瞑想を行ったとき、直感的なイメージの連続の中で、実に生々しい感覚の映像を見た。それは直感の次に立ち現われ易い、連想ゲームのような、エゴによる都合の良いイメージたちとは違うものだった。例えて言うならば、先の分からない、内容を知らない映画を無理やり見させられているのに似ていた。
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思い至ったこと
この内容が正しいか、間違っているか、また、現実視するに値するかどうか…などと言うことも、あまり関係ないと思っている。ただ、この過去世瞑想で言えることは、私の心の奥のある部分、しかも明らかに無意識の領域に、顕在意識をざわつかせる動機たちが横たわっていることへの、ほんの少しの自覚であった。
自分も知らない、自分たらしめている動機の存在に気づく一連の出来事から、これは「家族や一族(広げれば、縁ある人々総て)との充実を叶えたい」と言う欲求だと直感した。この瞬間、胸のつかえが外れたように心が「スッ」と納得して気持ちが軽くなっていった。
ついでこの欲求は、今生においてこそ私のテーマだ…と思えてくるのだった。そして今までの様々な経験や現象は、この自覚のために自ら設定した課題だったのか…と振り返ると、あの過去世の父母に「生きている時間の尊さ」を教えられているようで、急に心が熱くなるのを感じた。
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こよなき幸せ
原始仏教経典にスッタニパータがある。この経典はお釈迦さまの言葉が生き生きと述べられていると言う。私はその一節(小なる章)にある「こよなき幸せ」に人としてのあるべき姿を思った。中村元先生の訳をそのまま失礼して最後の文章にしたいと思う。
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この記事につきまして
45歳の平成二十八年十月、私はそれまでの半生を一冊の自叙伝にまとめました。タイトルは「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」としました。この「自然に生きて、自然に死ぬ」は 戦前の首相・広田弘毅が、東京裁判の際、教誨帥(きょうかいし)である仏教学者・花山信勝に対し発したとされる言葉です。私は 20代前半、城山三郎の歴史小説の数々に読み耽っておりました。特に 広田弘毅 を主人公にした「落日燃ゆ」に心を打たれ、その始終自己弁護をせず、有罪になることでつとめを果たそうとした広田弘毅の姿に、人間としての本当の強さを見たように思いました。自叙伝のタイトルは、広田弘毅への思慕そのものでありますが、私がこれから鬼籍に入るまでの指針にするつもりで自らに掲げてみました。
記事のタイトル頭のカッコ内数字「 例(1-1)」は「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」における整理番号です。ここまでお読みくださり本当にありがとうございます。またお付き合い頂けましたら嬉しく思います。皆さまのご多幸を心よりお祈り申し上げます。
タイトル画像は omori55さん より拝借しました。
心から感謝申し上げます。ありがとうございます。