(6-1)自叙伝を書き終えて【 45歳の自叙伝 2016 】
四十六歳を前に
四十六歳を前に、私の心がどういう風景を辿って来たのか。そもそも何故この自叙伝を書き記そうとしたのか。最初の動機は、ただ「知って欲しい」という思いだった。もちろん相手は両親に他ならない。
私から見て両親はどういう存在だったか、それを一言で表すことは不可能だった。書き始めて思い出したことも数知れず、記憶を整理しながら、様々な思いがよぎり、筆は遅々として進まずであった。盛り込みたいエピソードはまだまだ幾つもあった。そして気がつけば、書き終えるまで 丸二年以上掛かってしまっていた。
このような自叙伝は、所詮、主観的で著者の都合が優先されていると思う。しかしそれは承知のうえで、過去の出来事が、どのように現在の私に繋がっているか記したかったのである。また、その意味合いを重視したことで、一部時系列に出来なかった箇所も不本意ながらある。
内容に「それは事実ではない!」とお叱りを受けるような記述もあると想像するが、そのご指摘も甘んじて受け入れる。これは父が以前「事実と現実と真実は違う」と話した通りである。[1] 事実は純粋に起きた事象であり、[2] 現実は私の見てきたもの、[3] 真実は価値観であり人の数ほどある。流れとして見れば、人は現実によって成長し、真実を見出して、事実から学ぶ …となる。故に、この自叙伝も私の現象世界の現実につき、どうか記述の勝手をお許し頂きたい。
それから「心にも因果関係はある」と言いながら、その連鎖をどうにか表現しようと思ったのだが、とても納得のいく文章とは言い難く、拙い文章にお付き合いくださった方々に、どのようなご心象が読後に残っておられるか、想像すればするほど慙愧の念に堪えない。
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しかし、私には書き記さなければならない理由があって、ある意味それは闘いでもあった。「三つ子の魂、百まで」と言う。もって生まれた性格なのかも知れないが、長い間、私は両親に逆らえない子供だった。反抗期も無かったように思う。
そんな私の心にも両親に対する悪感情は沸き起こるのである。そして、嫌なことに、この悪感情はねじくれた形で増幅した。父が倒れて以来、両親への横柄な態度は常となっていた。それが甘えであることは気づいてはいたが、その己の弱さには目を向けず…。
この悪感情や甘えを中和してくれたのは、数々の書物による導き、思索、瞑想であった。私にとってこれらはオアシスだった。そうして、気持ちを落ち着かせると心地よい内省が私を潤してくれた。※下記投稿をご覧頂けましたら幸甚です。
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人の心は幾つもの人格と言うか、考え方を同時に併せ持つことが出来る複雑で多元的なものだと思う。ストレスを感じている心、ストレスを処理している心、様々な価値観を比較する心、それらを客観視している心、神的なものに委ねる心、心を手放す心、真我を求める心、等々…これらを同時に混在させ、様々に起こり来る問題に向き合うとき、先の「導き・思索・瞑想」は大変有効な方策である。その訓練によって心の数が多くあることは、心のキャパシティー(容量)の大きさに繋がってくる。そして経験が増せば、その心に信条的深さと強さも増してくるのである。
一方、現象世界の私はいたって平凡で傲慢な凡夫である。両親のことを書き綴っているうち、私はひどく気取った裁判官になっていた。これ程の親不孝もないだろうと、自分の心根をそら恐ろしくも思った。藤崎先生に「本当ならさ、息子の方で(両親の)面倒見てあげるものなんじゃないか」と諭されたときは、自らの不甲斐なさから逃げ出したい気持ちにもなった。
人は自分には嘘をつけない生き物だと思う。人を裁く前に、私自身はどうなのか振り返ると、また恐ろしい気持ちになる。それは、私だってどれだけの人を傷つけてきたか分かったものじゃないからだ。実際、妻を泣かせたことも、ある人に取り返しのつかない心の傷を負わせたこともある。本当は、両親を非難する資格など私にはない。そして思い至ったのは、傷つけた者は忘れやすく、傷つけられた者はその経験にずっと向き合う…と言う現実であった。
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先日、NHK「こころの時代」で放映された「ティク・ナット・ハン~怒りの炎を抱きしめる~( 2015年 4月 5日 放送 )」を視聴し、私は多くの共感とある種の衝撃を受けていた。それは自らの悪感情と向き合う実践の重みである。
冒頭 ティク・ナット・ハンの紹介
女の子とのやり取り
怒りの変容
苦しみの扱い方
番組の最後に
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自叙伝を書き終えて
さて、様々なことは今もって進行形であるが、突き詰めればシンプルなことだと思う。つまり、私の過去世のイメージにあった「充実を叶えたい」という欲求である。それを具体化すれば、最後に載せた「こよなき幸せ」に尽きるのだろう。
私の現象世界における現実は、そういう意味でまだまだ叶っているとは言えないが、どういう因果か私は両親と共に生き、共に仕事をしている。また、有難くも幸せなことに両親は健在( 2016年 10月 時点。父は 2019年 12月 に亡くなりました。)である。
こうして「生きている時間の尊さ」に思いを馳せ、「今ここ」を精一杯生きること、自らを知ることを通じて、しっかりと今生を全うしたい…と、思うようになれたのは実に両親のお陰である。この感懐はきっと私が死の淵に際しても変わらないと信じる。
導きよ、私を照らしてくれ。
不完全で未熟な我々に幸あれ。
私たちが充実にありますように。
お父さん、お母さん、ありがとう。
平成二十八年十月
直江義明 記す
続きは以下の記事です。
自叙伝最後の投稿となります。
ひとつ前の記事は…
この自叙伝、最初の記事は…
この記事につきまして
45歳の平成二十八年十月、私はそれまでの半生を一冊の自叙伝にまとめました。タイトルは「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」としました。この「自然に生きて、自然に死ぬ」は 戦前の首相・広田弘毅が、東京裁判の際、教誨帥(きょうかいし)である仏教学者・花山信勝に対し発したとされる言葉です。私は 20代前半、城山三郎の歴史小説の数々に読み耽っておりました。特に 広田弘毅 を主人公にした「落日燃ゆ」に心を打たれ、その始終自己弁護をせず、有罪になることでつとめを果たそうとした広田弘毅の姿に、人間としての本当の強さを見たように思いました。自叙伝のタイトルは、広田弘毅への思慕そのものでありますが、私がこれから鬼籍に入るまでの指針にするつもりで自らに掲げてみました。
記事のタイトル頭のカッコ内数字「 例(1-1)」は「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」における整理番号です。ここまでお読みくださり本当にありがとうございます。またお付き合い頂けましたら嬉しく思います。皆さまのご多幸を心よりお祈り申し上げます。
タイトル画像は salt_5さん より拝借しました。
心から感謝申し上げます。ありがとうございます。
香川・父母ヶ浜(ちちぶがはま)とのこと、
この記事にあわせてつい選んでしまいました。