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岡本太郎『自分の中に孤独を抱け』を読んで

岡本太郎『自分の中に孤独を抱け』

オンラインブックコミュニティで出会った知人の薦めで昨日購入!
 東京国立近代美術館のミュージアム・ショップで偶々見つけました✌️


「お前、いい線いってんじゃねーか?
頑張れよ。」
「太郎さんあざます!」

ちょっと声を掛けて頂いた気がしました。

 今まで自分が志向してきた能、そして生き方と照らし合わせながら読み進めました。

以前、オンラインブックコミュニティのイベントで出会った方に、
「あなたは物語のなかを生きる人」と命名されました。
いま思えば確かに、自分を物語の主人公に見立てて、同時に実況もしながら人生を生きている心地がします。

「なんでそっち行くの?」と言われても、迷わず突っ込んでいったり、
「いつまで女の子とLINEしてるの?今日大学受験当日だよ?はよ寝なさい」と、女の子本人に呆れられたり…笑

 太郎さんも、退屈や凝りができたらそれを見つけては嬉々としてぶち壊し、ゼロから何かを創るのが生きがいだったのかな?

 これと関係があるか分かりませんが、
私は「感覚」で舞台に立ったり勝負に臨んだりすることをしません。
例え最高の感覚で最高のパフォーマンスが出来たとしても、どこかに必ず課題があります。
そして、感覚には実体がなくドラッグのように、、偶像崇拝よりも脆いものでしかありません。
ですので、感覚の良し悪しは度外視して、淡々と稽古と結果を振り返り、良かった点と悪かった点、そしてその原因を丁寧に整理します。
舞台は一期一会、その時の自分とも一期一会です。
いつまでもその舞台を引きずらずに、その舞台に立っていた木偶の坊、つまり私を全力で木っ端微塵にします。
今まで教わってきた型や観念もなるべく捨て去り、ニュートラルになってから、一から稽古をはじめます。

 能をやる上で私が目指してる形は、
ニュートラルな身体に、能動的な稽古を通して有を詰め込み、
ニュートラルな自然の摂理を舞台に残すというものです。
その際、自分が主役であってはいけない…

 自分はあくまで、自然の従僕として、その摂理に逆らわずに舞台を務めます。
うまく見せたい!というような欲望は、人間なら誰でも持っているものかもしれません。
しかしその欲望が止まるところを知らず、やがて自然環境破壊に繋がっていったのは、地球史に残る人類の汚点だと思います。
負の轍を踏みたくない…こうした思いがあるので、うまく見せたいという欲望が出てきた時は、以下の言葉を戒めとして自分に告げます。

「天下の事、固より順逆なし。わが心順逆あり。」ー佐藤 一斎

 いま、あなたの目の前に置かれている一本の鉛筆。
それが宙に在れば、人はそこに神秘を見出し、芸術を感じるでしょう。
私自身は、芸術を創ろうとはしません。
それを芸術と捉えるか、そこに美を見出すか否かは、観客のこころ次第。
私が創るのは、目には見えない、宙に浮かぶ鉛筆を支える存在。
私がどれだけ稽古熱心で上達したとしても、鉛筆を支える私の手が見えなくなることはありません。
しかし、ひとたび宇宙という無重力空間ー地球の生みの親の手に掛かれば、
鉛筆を空間に遊ばせることは他愛もない話でしょう。

 結論、私はどれだけ努力しても、宇宙-自然の摂理法則の前には敵わないのです。
だからこそ、負けん気の強い私は、
めげずに謙虚に?稽古に励むことができるのです。

 私がやれることは、
われわれ人類を代表して何かを為すことで、そこに流れるありのままの自然の摂理を舞台に残し、
観る人、人生で出会う人々に感じとってもらう、ただそれだけ。

 観客にのぞむことは、
五感のアンテナを働かせて、生命欲求のままに舞台をつくろうと身を乗り出すという行動です。

以上。。

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