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禅と清教徒と現代社会。

禅と清教徒は真逆だが似ている。
共に本流が持つ要素を強調することで再帰的な正当性に至るが、他の分派同様、その正当性が原初の正統生を構成していた部分的なものに端を発しているため、
その強調される部分に付随する形で別要素の喪失が伴うのである。

たとえば、禅では座禅や問答などの方法論が前面化し、行の再強調と無我の境地の目的化が一組になっているため、慈悲や縁起などといった他者との関係の扱いは極めて雑となり、
清教徒は清教徒で、聖書と清貧思想の実践で他者と繋がるのだが、その他者とは、初めから共に貧しいことが分かり切った、文字通り隣人としての他者なのであり、
隣人と読む聖書に重きを置くことで牽制した権力の問題は、再び、日々の人間関係における権力の不在を強調するのである。

両者がある範囲において現代人と相性が良いのは、現代社会こそが前近代的な共同体の在り方を喪失しているからであり、
先に述べたそれぞれの杜撰となった部分を常態化することによって運用されているからだ。
言い換えれば、始原のそれと比較した際に生じるはずの長短でいう短所が、生死に直接関係する共同作業を喪失した、現代社会の非共同体性と重複しており、
それぞれに強調された部分的な要素が、現代人からすれば長所のみで構成されているかのように見えるため、能動的な方法論としてそのまま現実に嵌め込むことが容易なのである。

特に、アメリカのエリートにたびたび禅が流行し、貧しい層の人々が熱心に聖書の朗読を聞きに通うのは、
この禅に欠落した他者と慈悲や、清教徒の聖書回帰に付随した霊性に関連した権威者の不在こそが、
非共同体的な社会を生きる我々の日常を構成している空洞であり、この空洞を通風構にして、我々は日々、様々な商品やサービスを流通させているのである。

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