ロリータの象徴性
『ロリータ、ロリータ、ロリータ』若島正(作品社)
ナボコフ『ロリータ』を読む前に翻訳者の解説本を読む。ロリータ本三冊目。こう書くと少女性愛者みたいだけど文学的興味からである。
大江健三郎『臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ』はポーの詩からナボコフ『ロリータ』の系譜を辿って自身のメタフィクションとなるような「ロリータ」系小説。アーザル・ナフィーシー『テヘランでロリータ』はイスラム社会で禁書とされる『ロリータ』読書会というような話。その中で『ロリータ』をハンバート・ハンバートの視点からではなくロリータの視点から読むのは亡命者ナボコフと近い自由主義者としてアメリカ資本主義讃歌として読めた。そして、三冊目が『ロリータ、ロリータ、ロリータ』なのだ。
フェミニズムの『ロリータ』本についても、ピア・ペーラ『ローの日記』やリンダ・S・カウフマン『ロリータのフレーム』のロリータ側から読む視点を取り上げてナンセンスだと論じていた。それよりもアメリカではナボコフ『ロリータ』が大学では読まれにくくなっているという。ナボコフはアメリカの自由主義を讃歌していたのにどういうわけだろう。それよりアーザル・ナフィーシーは『アメリカでロリータを読む』を書いてくれるだろうか?
最初のチェスの譜面はパス。詰将棋も苦手なんで。
ロリータは再読するための仕掛けがあるという話。最初に結婚したロリータが出てくるのに読者は気が付かないという。結婚して名前も代わっているから。他にロリータが最初に登場させるときに不良少女だという印象付けるためにナボコフが仕掛けをしているのだが、ほとんどの人は読み落とすという。まあ、大体の読者がそうだよな。再読することでやっと読めるというような。
ナボコフは映画好きで『ロリータ』の映画の脚本も書いたのだが7時間にもなるのを2時間でまとめるのも無理な話なのと映画の倫理規制が未成年者を使えないとかキリスト教のモラルに反するとかで思い通りの映画にはならなかった。
それは例えば亡命してきたソ連で翻訳しようと思えば翻訳の規制があるようにある部分はナボコフは理解していたから象徴性や隠喩というようなものが原作には散りばめられているという。そこが『ロリータ』の難解さでもあり一度読んだだけでは理解できない小説となっているのだ。
そもそも『ロリータ』がポーの最後の詩『アナベル・リー』から来たもので「ロリータ」の中に「リー」が隠されているのだ。それはポーの初恋のニンフェットのイメージが幻想そのものであるという一つの幻想世界への批評も含まれていたのだ。ハンバート・ハンバートという名前の繰り返しは、例えば「ドン・キホーテ」のように最初の物語のパロディがあるが、さらにその後で自身の作品をも自己批評するというメタフィクション的な構造になっているのである(それが大江健三郎の自身の作品を自己批評としてリライトしていく「晩年の仕事」に繋がっていく)。
ハンバート・ハンバートは信用の出来ない語り手であり、そのことをナボコフが強く意識しているという。それこそ大江健三郎の長江古義人ではないか?
そのなかで重要な人物はハンバート・ハンバートだけではなく、例えばロリータの母親であるシャーロットは最初に批評されるべき人物として、アメリカの物質主義の女そのものとして描かれているのだった。
「ロリータ」の中に含まれる響きの良さの中にこそ言霊的な魅力があるのかもしれない。だから「ロリータ、ロリータ、ロリータ」と歌いたくなるような音韻を含んでいるのである。
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