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二人称小説は、死者の弔いだった
『死なないでいる理由』鷲田清一 (角川文庫)
生きること、老いることの意味。現代はそういう問いを抱え込んでいる。<わたし>が他者の宛先でなくなったとき、ひとは<わたし>を喪う。存在しなくなる。そんな現代の<いのち>のあり方を滋味深く綴る哲学エッセイ。
定期的に精神安定剤として、鷲田清一は読んでいる気がする。前半は構造主義的な哲学的存在論のような。後半は、近年の生と死をめぐるエッセイ。AI問題や大人にならずに老いていく学生たち。通過儀礼としての成人式が学校という閉鎖空間の中で社会から隔離されている。だから、大学を卒業するとけっこう歳を取ってしまうのだが自活能力はない。若者の自立問題と自活できない社会的状況。
その他、二人称について、最近読んでいたハン・ガン『回復する人間』でもグカ・ハン『砂漠が街に入りこんだ日 』でも書かれていたので気になったことについてのメモ。
<わたし>の存在が「他者の他者」としてはじめて可能であるとするならば、わたしをその思いの宛先というかたちでの、わたしにとっての二人称の他者の喪失とは、「他者の他者」たるわたしの喪失にほかならないからである。
私を理解してくれる他者の喪失という私の喪失が「あなた」という宛先不明の呼びかけなのである。親密な関係性の他者の死。もう一つの自己の死を確認する手続きとしての弔いの儀式(書くこと)。
人の死が死者として受け入れらるのは、遺棄するのではなく、埋葬という行為を伴うことで、受け入れられるのであって、例えば大震災や戦地での行方不明者は死者として受け入れがたくいつまでも彼らは死者にはなれない。
それは例えばヴァーチャルなTVの向こう側の死についても、不安を覚えたりするが死者として受け入れがたく、己の死の不安と共に呼び覚ます。
<死>の経験というのをあたためて考えてみるに、死ぬことよりも死なれることがじつはその原型なのではないかとおもう。だれにも死はかならず訪れる。だれも死を避けることはできない。それは有限の生を生きる者にとって必然の出来事である。けれどもその出来事は経験というかたちで起こることはあり得ない。経験と死とともに不可能のになるからだ。
死はいつも不在として迫ってくるものである。他人の死はまぎれもない経験として。無関係なひとの死はひとつの情報としての経験されることにすぎないが、そこに同質性を見出すならば自己の喪失と受け止められる。この喪失を「慰問」すること。それが僧侶がなされてきたことなのだ。死者を亡き人として語る必要があるのだ。そして、思い出話として彼らは存在する。
例えば遺体が確認されない場合は、延々と問い続ける自己内対話として生とも死とも結果を導き得ない。
一人称から二人称へ、さらに三人称として死者を語ることで他者の不在を受け入れ死が合意される。
「生まれる」ということも受動態の語形で、「うまれたての赤ちゃん」とは言うが「うみたての卵」のように「うみたての赤ちゃん」とは言わない。「うまれたてのひよこ」というが「うみたてのひよこ」とは言わない。主体性の問題でひよこは主体性を持って生まれるが、卵は母鳥の主体性によって産まれる。
生まれてくるのは産んでもらうのではなく、自主的に生まれてくる中で母との関係性を築くのである。それは、母親が赤ん坊をあやすときの表情によって、赤ん坊は模倣しながら自分の顔を作っていく。関係性のなかで喜怒哀楽を表出していく。人間が集団性の動物であって、その中で関係性の中で生きることが出来る。疎外され孤立する場合、人は生きているとも死んでいるとも言えない。今まさに問題なのは孤立する人間が「死なないでいる理由」を見つけ出す困難さ、ただ生きているだけで十分なのだ。ただ生きているだけでも関係性が築かれているのだと知ること。