ハン・ガンを読む
『菜食主義者』
三篇の中編(短編)連作。植物人間になってしまう妹は極北の生き方、それが植物性なんだけれども、そうした狂気の様相が健常者の視線を通して記述される。その態度によって、夫は拒絶し、(義理の)兄は同調し、姉は諦観する。その描き方は上手いと思った。姉は諦観しながら息子(鳥)と共に生きていく希望を感じさせるラスト。あとがきによると「菜食主義者」は作者が14年前に書いた「私の女の実」という植物人間になってしまう短編が出発点で、一人称語りから他者の視点を入れることで多層的に展開したと思われる。
カミソリのような描写の鋭さと痛々しさ。肉機械(ソクーロフじゃないが)に耐えられない植物人間と対峙する家族の騒動。強い父親の強権に対する抵抗、狂犬に噛まれたときの回想、父がバイクで犬を引きずり回し、走り疲れてくたばった犬の肉を喰わす(それで狂犬病が回避出来るという迷信)トラウマ。
「菜食主義者」は小説全体にそうした封建家族的な圧迫が垣間見られる家族の崩壊。そして続く「蒙古斑」では義兄を通しての植物人間になった義妹とのエロティックな芸術的な関係。身体表現のエロビデオのような作品を作るのだが、妹の植物人間にどんどん惹かれていく内に危険な関係になっていく。「木の花火」の姉の諦観と微かな希望。(2017/02/03)
『少年が来る』
映画『タクシー運転手』を観た後、思い出したように光州事件を描いたハン・ガン『少年は来る』を読んだ。『タクシー運転手』との違い(映画と小説というのは別にして)、『タクシー運転手』がドイツ人ジャーナリストの回想録の物語でそんな時代もあったという物語風なのに対して、『少年は来る』は光州事件に巻き込まれた死者や生者に憑依する文学でその傷跡は今も癒えることがないものとしてある。
ハン・ガンが光州事件から去った10歳にならない少女の姿で、『少年が来る』というのは15歳の少年なのだが、光州事件で惨殺された霊魂と小説の中で出会う。最初の「幼い鳥」からやられる。遺体置き場の情景。家族が探す死者たちへの声と彷徨う死者たちの魂が混然となって読みにくいが、綺麗じゃない遺体というのはよくわかる。整理されないのだ。『遺体 明日への十日間』という東日本大震災の映画を思い出した。
それは光州事件だけではなく、ベトナムや南京事件やボスニア紛やアレッポやパレスチナで行われている人を人とも思わない軍人の残虐な行為。二人称で呼びかけるハン・ガンの鎮魂歌は、血縁的な濃い血の繋がりを感じさせる登場人物たちとの親近感なのか?ハン・ガンが幼少時の前年に光州に住んでいて北京に引っ越した後にその事件を幼い肌で感じていた。
体感する文学。嫌な感じとか、息苦しさとか。そういう意味では『菜食主義者』の神経症的なヒリヒリ感とも繋がる。6編の短編連作なのだが、最初が遺体置き場からトラックに投げ入れられた死体について、ビンタの拷問、監獄の兄弟、と次第に光州事件の痛ましさが展開していく。生き残ったけど暴行された傷が癒えない女性、息子を失った母の叫び。(2018/05/23)
『すべての、白いものたちの』
小説よりは散文詩。汚してはいけない「真っ白」かと思ったら違った。白くなるという。それは死にも繋がるし炎が燃え尽きて白くなるような。韓国語では「ヒン」というらしい(真っ白は「ハヤン」)。早産で生まれて死んでしまった姉へのレクイエム。インド・ヨーロッパ語では、空白blancと白blanc、黒blackと炎flameはみな同じ語源だと。白と黒の兄弟(姉妹)。というかピアノか?(2019/03/26)