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「批判理論」は、アメリカの哲学?

『フランクフルト学派 -ホルクハイマー、アドルノから21世紀の「批判理論」へ』細見和之 (中公新書)

ホルクハイマー、アドルノ、ベンヤミン、フロム、マルクーゼ…。一九二三年に設立された社会研究所に結集した一群の思想家たちを「フランクフルト学派」とよぶ。彼らは反ユダヤ主義と対決し、マルクスとフロイトの思想を統合して独自の「批判理論」を構築した。その始まりからナチ台頭後のアメリカ亡命期、戦後ドイツにおける活躍を描き、第二世代ハーバーマスによる新たな展開、さらに多様な思想像の未来まで展望する。
目次
第1章 社会研究所の創設と初期ホルクハイマーの思想
第2章 「批判理論」の成立―初期のフロムとホルクハイマー
第3章 亡命のなかで紡がれた思想―ベンヤミン
第4章 『啓蒙の弁証法』の世界―ホルクハイマーとアドルノ
第5章 「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」―アドルノと戦後ドイツ
第6章 「批判理論」の新たな展開―ハーバーマス
第7章 未知のフランクフルト学派をもとめて

ホルクハイマーとアドルノ『啓蒙の弁証法』の重要さ。それは「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」というアドルノの言葉なのだが、それでも重要な詩は書かれているのであり、アドルノの「啓蒙」には批判があるという。

フロムはアウシュヴィッツを体験した精神科医として、フロイトの理論はブルジョアの方向しか見ていないとして、マルクスの理論(下部構造が革命を起こす)を取り入れる。「死の欲動」についても再考察してアドルノから修正主義と批判された。フランクフルト学派の中で重要なのはファシズムの権威主義に対する批評があった。アドルノは大衆理論を反動と見たのかもしれない。「死の欲動」はむしろフロムは明るさを見ようとしたことでベンヤミンの「クレーの天使」の世界観と通じるところがある。それはアウシュヴィッツのなかでも絶望しないものが生き残ったのであり、「死の欲動」に支配されていたら、生き残れなかった。

アドルノは論争の中で絶えず変化してきたのがハーバマスに受け継がれているということだが、そもそも「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」という事自体が権威的であり(あとでツェランの詩を評価したというが)、ベンヤミンとの論争もベンヤミンの断片性を理解してなかったのではないか?「アウラ」が模倣者によって失われていくのは、そもそも発言者の言葉も模倣者によって編集される(Xを見れば発言者による勝手な切り取りによる引用)てそれが権威主義的振る舞いをするのだ。ハイデッガーの中にファシストの思想があるというのだ、そういう自分自身のことは考えてなかったのか?

それはフーコーなどの言うシステム論なのだ。ベンヤミンが権威にならなかったのは、むしろアメリカに亡命出来なかったからかもしれない。ベンヤミンのミメーシス(模倣)ということも、そこから始まる大衆運動があるわけで、叙情的なものは無視できないのだ。そこにパッサージュ論で見られた断片性が神話的なものと結びつく。それは神秘主義に結びつきやすいのだが権威的に分析していくのもそういう俎上があると理解してないとFスケール〈ファシズム・スケール〉とか作って分類していく。そして模倣者が勝手な解釈によって権威付けられるのだ。

『啓蒙の弁証法』の「啓蒙」ということがすでに権威的になりうるのではないのか。ヘーゲルの弁証法も。そこを否定したのがニーチェだと思う。文化がそもそも人間中心になること自体自然と反することなのだと思う。そもそもジャズを否定しているのが理解できない。ポピュラー音楽としてのジャズを捉えるとそれ以外のジャズが見えなくなると思う。とにかく何か言葉に当てはめすぎて、生成するということが見えてこない。ハーバマスになるとコミュニケーションということになるのだが。アメリカのコミュニケーションは論破だからな。


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