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読書とは何か(その2)

『手紙、栞を添えて』辻邦生、水村美苗 (ちくま文庫)

前略、みなさま方。前回の続きです。

ドストエフスキーからでした。人は何故ドストエフスキーの文学を語りたくなるのか?それは未完成(未完性)にあると思うのです。トルストイの長編は終わりに進むように構想があるように思えます。『戦争と平和』にしても『アンナ・カリーナ』にしても終わりまで読んで納得するのですが、ドストエフスキーは納得させない。まだ物語は続いているのではないのかと思わせる。『罪と罰』でラスコーリニコフがシベリア送りになっても、その先の物語がある。ドストエフスキーのシベリア体験とか。死刑になるかと思っていたら突然恩赦が来る。運命に翻弄されると言えばそれまでなのですが、運命に翻弄される。ドストエフスキーを読んだのも運命であるかのように。そして問いは続くのです。『罪と罰』から『悪霊』『カラマーゾフ』へと。ドストエフスキーの作品は一つの物語で終わることがないように思う。ドストエフスキーの作品すべてが関係づけられている一つの世界なのです。そして最後は未完に終わる。そういう未完成がある。

ゴーゴリは短編『外套』は完結した見事な小説だとおもいますが、その亡霊たちはどこに行ったのでしょうか?『死せる魂』として書き続けられたのです。この長編も未完に終わった。さまよっているのですね。ぐるぐる物語というか想念が。例えば漱石も簡潔しない作品群だと思います。『こころ』で先生の自殺で明治と共に幕が閉じられる。けれども語り手はその先も生きていかねばならなかったのです。終わりのない世界が『明暗』に引き継がれる。そこが森鴎外の完結される歴史物と違うのかな。鴎外は外から医者のように描く。漱石は中からさまよって書く。そういう未完成の作品は、フォークナーの作品もそうなんですね。

例えば大江健三郎がラテンアメリカの作家をさしてフォークナーの息子たちという。自らもフォークナーの日本の隠し子のような振る舞い方をしています。同じテーマで終わりのない物語を書く。大江健三郎の場合、作家の死が物語の終わりのように語られていますが、彼から手渡されたバトンという考え方で続いていく。そうして作家から作家へと引き渡されていくバトンのようなものがあると考えるのです。

例えば読書が一冊の本を閉じてもまたそれに関連にして読みたい本が出てくる。この『手紙、栞を添えて』もそういう本なのです。

それは「栞」という読みかけのページで示されている。続きは読者の手に委ねられると思うのです。本を閉じて終わるだけなら、それまでの本ですが文学は語り続けることが出来る。二人の作家とは違う意見でも、対象となる作品には騙るべき読書暦があると思うのです。

辻邦生とは文学観は違うけどリルケ『マルテの手記』を読んだときの宗教性はあったような気がします。マルテも彷徨い歩いて天使を見つける。最終的にはそこなのかなと思いますが、天使がまだ現れない。それは「エヴァンゲリオン」じゃないけど「残酷な天使」であるわけです。なぜなら終末論を迎える天使だから。しかし、それまでは生きなければならない。リルケの先にカフカがいたのです。

辻邦生はトーマス・マンのようですがそこで完結させているように思える。カフカも未完の作家で、今日の文学はカフカなしでは考えられなくなっている。村上春樹にもカフカ的問いはある。彼はすぐ泣きますけど。

だからこの本もどこに栞を挟むか問われているのです。終わりのない文学の世界に。


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