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ヴァージニア・ウルフは怖くない

『灯台へ/サルガッソーの広い海』ヴァージニア・ウルフ、ジーン・リース(池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 2-1)

灯台を望む小島の別荘を舞台に、哲学者の一家とその客人たちの内面のドラマを、詩情豊かな旋律で描き出す。精神を病みながらも、幼い夏の日々の記憶、なつかしい父母にひととき思いを寄せて書き上げた、このうえなく美しい傑作。新訳決定版(『灯台へ』)。
奴隷制廃止後の英領ジャマイカ。土地の黒人たちから「白いゴキブリ」と蔑まれるアントワネットは、イギリスから来た若者と結婚する。しかし、異なる文化に心を引き裂かれ、やがて精神の安定を失っていく。植民地に生きる人間の生の葛藤を浮き彫りにした愛と狂気の物語(『サルガッソーの広い海』)。

『灯台へ』ヴァージニア・ウルフ

ドゥルーズの「リゾーム」概念の小説化と思うぐらいに、襞とか線とかヴィジョンとしてのイメージを作り出す。絵画的小説かと思うが、ラムジー夫人のみんなで灯台へという想いが、夫の声(モラハラ人物)によってかき消されていきそうになる。夫は哲学者でイギリスだから経験論の人か?現実的なんだよな。

ラムジー夫人と書生風な前途のある青年タンズリーの二重奏で奏でられる平和なラムジー家の情景から、散歩に出ていく二人。サーカスがやってくるポスターから、ラムジー夫人がまたみんなで行こうというイメージを持つが、タンズリーの身の上話で消されてしまう。

間歇的意識の流れと中断する精神を描いているのだ。

章が変わってしばらくするとラムジー夫人と絵描きのリリーが入れ替わる(ラムジー夫人を描いているリリー)。イメージを摑もうとするリリーの想念。そして夫と親友だった独り身のバンクスの想念が交差していきながら、二人が散歩していく情景が弦楽四重奏のようなうねりを奏でる描写となっていくのがスリリング。

声と想念の交錯による音楽的情景。ラムジー夫人とタンズリー。リリーとバンクス。ラムジー夫人が第1バイオリンで第2がリリーというような。タンズリーがヴィオラでバンクスがチェロか?ラムジー夫人の家と庭、子供たちが8人と夫の賑やかな家族の中のひとこま。

読み進めていくとその空気が読めない夫がいるのだ。最初に夫人の「灯台」を吹き消してしまうのを夫の言葉だし、さらに調子外れの歌で夫人を不安にさせたり、狩りで銃声を響かせリリーとバンクスの交流を打ち破る不協和音的存在だった。

タンズリーはむしろ夫の分身で、若き日の夫と重ね合わせているのかもしれない。そうすると、リリーとバンクスのラインに絡み合うのが、ラムジー夫人と夫のラインになるのかも。でも夫は音楽(調和)を破壊する人。小説の中でも夫の思考をピアノの鍵盤に喩えている(不協和音好きのピアニスト)。ここの描写は遊び心に富んだ文章表現だ。

ラムジー夫人は、母親であり女主人であり妻であり愛する人でありと燦めきの中で刻々と変化していく女性だ。そのラムジー夫人の晩餐会が一つの事件であり、そこに向かってあらゆる線(8人の子供たちの線や恋人同志の線など)が錯綜としていく。それがゲームのように(クリケットか)に運ばれていく。

そして最後のパーティの会話で様々な語らいの中で、ある一組の若者たちがまたラムジー夫人によって結婚しようとする。そこで勝利をおさめたものとしての確かな自信に彼女は満ちあふれており、リリーはまだヴィジョンを掴めないまま女主人を眺めているのである。幸福な時代の想い出。

第1部でラムジー夫人の内面を描こうとしたリリーだが、その内面について、むしろラムジー夫人は内面としてよりも外面として、ラムジー夫人の名前がいつまでも明らかにされず(家という存在の中でママさんみたいな役割的存在)、またそのことが彼女の資質を損なうこともない人々と関係を持つ、その中で愛を与え続けるラムジー夫人。

意識がぐるぐる回っていく灯台かと思ったら、第二章で、一陣の風が窓に吹き込む描写の旋律が気持ちいいのだ(左川ちかが散文詩に翻訳していた)。フリージャズの混沌とした意識の中から根源的な懐かしいメロディー(母性というようなヴァージニア・ウルフの中にある根源的な愛の姿)が現出する感じ。リルケの『マルテの手記』のママが出てくるときもそんな感じだった。

第3部は様々な人々のラムジー夫人と家の記憶。かつて灯台へは行けなかった息子ジェイムズは、少年から青年になっている。そして家を走り回っていたお転婆娘キャムも乙女になっていた。彼らと父は灯台へ。ラムジー夫人がいない親子関係性の変化。そこかしこにラムジー夫人の不在を知るリリー。

そこでヴィジョンを摑む。一本の線としてのラムジー夫人。ラムジー夫人の名前が呼ばれたときが、かつてラムジーによってその名前が呼ばれたときが、愛そのものの名前だったかもしれず、それが一つの線となって呼びかける、もう誰も彼女の名を呼ぶことはないが確かな線がそこにある。灯台への一本の線。灯台という家族の中心がラムジー夫人だったのだ。

『サルガッソーの広い海』ジーン・リース

フォークナーの遠い親戚かと思うぐらいに似ている。『八月の光』のジョー・クリスマスの愛人だった狂女ジョアナと重なる。『ジェイン・エア』の狂女バーサなのか。昔読んだがもう忘れている。

ウルフ『灯台へ』は2011年に読んでいて、リース『サルガッソーの広い海』を読まずにいたけど『あいつらにはジャズって呼ばせておけ』を読んで頁を開く。シャーロット・ブロンテ『ジェイン・エア』に接ぎ木されたフォークナー『アブサロム、アブサロム!』だろうか?第3部が『ジェイン・エア』のエドワードの妻バーサが酔っ払って火事で焼け死んでしまう。それは『八月の光』のジョー・クリスマスの愛人だった狂信女ジョアナと重なる。でも『ジェイン・エア』もフォークナーも知らなくても楽しめると思う。

『ジェイン・エア』のバーサは西インド諸島の島でアントワネットとして生まれる(「ベルばら」のアントワネットを連想するが)。マルティック島からカリブ人の奴隷(クリストフィーヌはシャーマンにもなる)を伴ってやってきたMr.メイソン(フォークナーのサトペンと同じ島の支配者)の元にやってきた花嫁の母(スパニッシュ?)の奴隷解放後に「白いゴキブリ」と呼ばれる娘の生涯。西インド諸島がスペイン人からフランス人へ、さらにイギリス人が支配した構造の中での人種差別が背景にあり、ポストコロニアルでありフェミニズムの小説。


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