落語調のゴーゴリ
『鼻/外套/査察官』ゴーゴリ/ 浦 雅春 訳(光文社古典新訳文庫)
そろそろ外套が必要な季節なのかな。俳句では薄地のものをコート、厚手のフード付きなのがオーバーということだった。「外套」はオーバーの和訳なのか?「外套」というのは文学の中でしか使わないが、なんか贅沢な感じがするのは毛皮とかイメージするかな。ゴーゴリ『外套』はまさにそのような豪華なオーバーだったのだ。
『外套・鼻』ゴーゴリ(翻訳)平井 肇 (岩波文庫)
カフカの『変身』と双璧。というかカフカもゴーゴリの影響を受けている気がする。アカーキイの外套は毒虫の鎧そのものの不条理さだ。外套をまとっていたときにすでに幽霊になっていたというのはナボコフの説。幽霊というか亡霊か。その亡霊に引きづられていくのが文学なのか。外套というその文字化によってその中にいる人(魂)をイメージして探し求める過程。アカーキーは文書係で文字を清書する仕事をしていたのも興味深い。一人称を三人称するよりも、大臣とか皇帝とかの文書を清書をする夢見る役人だった。
「鼻」は主人公から離れて勝手に行動する小説だが、「鼻」は換喩的表現なのだ。それが切り取られるということは、臭いの消滅、最初床屋の髭を剃る手が臭いということだった、無味無臭というと人工的な模造品のような感じだが、ペテルブルグという都市がまさに人工都市であったのだ。そして換喩的表現は上位(主人公)が下位(床屋、鼻)概念の逆転現象だが、それもこの喜劇の面白さなのだ。鼻が主人よりも地位が高く振る舞う。通常は上位のものに逆らえない日常世界、それを逆転させたことで喜劇が生まれる。
そして、八等官のコワリョーフは試験で選ばれたのではなくコーカサスの地主階級のコネで地位を得たと思われる。さらに自分自身を八等官というよりは少佐と呼ばせていた極めて見栄が強く見せかけだけの地位だったのである。そんな男の鼻が無くなる。そして鼻が勝手に振る舞う。なによりも面白いのが鼻の捜索のために新聞広告を載せようと迫るところだ。新聞屋は嘘を書けないと突っぱねる。しかし、それは逆に読めば新聞は真実を書けなかったのではいか?
実際にコワリョーフの鼻がないのを確認するのだが、それを当時流行りの小説にして載せればいいと言うのだ。メタフィクションの要素もあるのだ。ラストの落ちでゴーゴリがその小説を書いたことになるのだから。そして、医者の言うことも鼻を付けることは出来ずに、それをホルマリン漬けにして、見世物にして小金を稼げるというのだ。実際に鼻の噂は拡がり、鼻の現れそうな所には見物人が集まり出店まで出ていたということだ。当時の社会が伺われる。真実より噂がはびこっている社会。そこがペテルブルグなのだ
コワリョーフの鼻の実体のなさ。それは『外套』のアカーキー・アカーキエヴィチのゴーストと変わりがない。
(2022/09/26)
『鼻』
ショスタコーヴィッチのオペラ『鼻』が有名だが、以前TVで見た時に鼻のきぐるみが歩いているのにびっくりしたが、現実ではまずありえない話だった。滑稽譚としての喜劇なのだが、鼻を無くした八等官のプライドがずたずたになる様子を面白おかしく描いている。
ゴーゴリから影響された芥川龍之介も『鼻』を描いているが芥川の場合は鼻が目立ちすぎるために小さくしたいと話だった。対照的な話で面白い。「鼻持ちならない」という諺があるが、芥川の小説も問題はまさにそれである。一方ゴーゴリは「鼻を折る」という感じだと思うのだがロシアにそういう言い回しがあるのかどうか?
訳者の浦雅春は落語調にしたというが、これは『外套』よりも控えめな感じで成功しているかもしれない。ゴーゴリの喜劇は会話の面白さで、最初の酔っぱらいの床屋と女房の会話がまさに貧乏長屋の気弱な亭主と気の強い女房の話で面白いのだ。下町ではそんな会話がるのかもしれないと思わされる。その導入部から(床屋の酩酊状態で夢から目覚めて、とんでもないことをしたという絶望状態に突き落とされるのである)。そして八等官の鼻探しのドラマへと話が移っていくのである。八等官という役職のランクが良くわからないのだが、副知事になれるようなことを言っていたのでかなりの地位にあるのかもしれない。しかし『外套』のアカーキイ・アカーキエウィッチは九等官だからそんなに位は高くないのかもしれない。プライドとして福知事にもなれるようなことを言ったのかもしれない。「鼻持ちならない」奴はこっちかもしれなかった。
それと逆に鼻は階級も上がっているのである。帆付き馬車に乗っていたり位の高い上司の家に行っていたり。それで八等官の方は新聞で広告を出したり(当時の新聞の出始めは人探しや物を売るための広告が利益だったのか?)そういう世相と警察のいい加減さも描いているのだが見事に鼻は持ち主のところに還るのだった。そして床屋の男も絶望が消えていた。というよりその八等官の髭を剃るのだった。別々のストーリーがラストで一つに重なる落ちの付け方は見事である。
『外套』
『外套』は散々述べられているので、ここではペテルブルグという街のゴースト感は渋谷みたいな感じなのかな。いつまでも建て替え工事が終わらない街というような。もともと渋谷は谷だったので、暗渠とかあってゴーストのイメージが強いのだ。そんな表の明るさと裏の暗さ。
ペテルブルグもそんなゴーストタウンなのではないか?新しい首都モスクワがモダンな街としてあり、そこから取り残された感じの都市なのだろう。あと橋が重要な場所であの世との境界なのだ。そういえばドストエフスキーに『白夜』という作品があり、映画化もされてみたがそんな犯罪の街だったような。
『査察官』
『査察官』は昔は「検察官」だったよなと。これは戯曲で「査察官」でマルサのような感じなのかな。ペテルブルグからやってきた役人を査察官と思い込んだ市長を中心とした町の人々。今読むとウクライナのロシア併合時という感じでもある。当時は小ロシアと呼ばれロシアに比べて田舎者みたいな描写だった。そんな市民たちがロシアの役人に怯えて勘違いする戯曲なのだが、これもバレエになっていた。ゴーゴリの凄さはそういう他の芸術家に影響を与え続けていることだろう。それは人間の本質を描いているからだと思う。それが現れるのが会話なのだ。対話(ダイアローグ)と言ってもいいかもしれないが、そこまでは哲学的な話でもなかった。落語的な話だ。