回復してもまた消耗するのも人間
『回復する人間』ハン・ガン , 斎藤 真理子 (翻訳) (エクス・リブリス)
李箱文学賞、マン・ブッカー国際賞受賞作家による珠玉の短篇集
痛みがあってこそ回復がある
大切な人の死や自らの病、家族との不和など、痛みを抱え絶望の淵でうずくまる人間が一筋の光を見出し、ふたたび静かに歩みだす姿を描く。
『菜食主義者』でアジア人初のマン・ブッカー国際賞を受賞し、『すべての、白いものたちの』も同賞の最終候補になった韓国の作家ハン・ガン。本書は、作家が32歳から42歳という脂の乗った時期に発表された7篇を収録した、日本では初の短篇集。
「明るくなる前に」
クガ・ハン『砂漠が街に入りこんだ日 』を読んだ後にハン・ガン『回復する人間』を読む。最初は似ているところに気づく。韓国と遠く離れた熱帯地方。冬の寒さと人がひしめく暑さと。そして、死から始まり旅にでる人。ハン・ガンは友だちだった、かつて職場の先輩だったウニ姉さんと呼ぶ人。彼女は弟の死から旅を始め、放浪の地で亡くなる。その彼女を書いてみたいということが、小説家である私の旅なのかもしれない。
そんな小説家には娘のユニがいる。そこが決定的に違うのだが、家族を離れた者と家族を作っている者。その間をつなぐ言葉なのかもしれない。最初の題名「明るくなる前に」は、ウニ姉さんが恐ろしい夢の部屋から窓の外に出る夢なのだが、娘に宛てたタイトルのようにも思える。死者と共有出来ない時間と、そこから誰かに生を乞いたかった生者の時間。
無意味な尋問と返答のあいだで、あきらめと幻滅と敵意とともに互いの顔を冷たく凝視する時間。
目が揺れ、唇が震える時間。
私の死の中にけっして彼が入ってこれず、私がけっしてその命の中に入っていけなかった時間。
それらのすべてが重要でなくなった時間。
ただ生が、生だけが欲しいと、誰にあれ、何であれ這いつくばってでも乞いたかった時間。
ウニ姉のスティグマ (痕跡)、スティグマという言葉を思い出す。根源的な痕跡は、肉体よりも精神に残すものだ。そのスティグマから逃れられないウニ姉さんと対話を続ける小説家。
「そんなふうに生きないで。私たちに過ちがあるとすれば、初めから欠陥だらけで生まれてきたことだけなのに。一寸先も見えないように設計されて生まれてきたことだけなのに。姉さんの罪なんて、いもしない怪物みたいなものなのに。そんな薄い布をかぶせて、後世大事に抱いていきるのはやめて。ぐっすり眠ってよ。もう悪夢を見ないで。誰の非難も信じないで。」
「回復する人間」
二人称小説だった。この「あなた」は細部までの生活がわかる。生活で受けた傷といってもいい。回復する傷の話だ。自分で受けた傷よりも相手を傷つけてしまった傷の方が精神的には傷を残すものだろうか?あなたは、姉を傷つけたことで自身の肉体の傷をさらに酷くしようとする。あなたは誰なんだろう。「あなた」は小説家と姉さんとを同一視する。回復を望まない人間はスティグマを生きる人間だ。
「エウロパ」
「エウロパ」は木星の惑星ですね。ここでは、語り手の僕が密かに恋するイナが歌う曲のタイトルです。
エウロパ、
凍りついたエウロパ
あなたは木星の月
イナは悪夢を見る女性で、物語的には悪夢という繋がりがあるだけで、他の作品のヒロインとは別人格です。物語の中で何度も生き直す転生のヒロインでしょうか?そして、イナが僕と今まで付き合ってこれた理由を告白する。
「ただ一つ理解できないことはね。今まであんたは、あたしを一度も傷つけたことがなかった。今までの六年間、たったのいっぺんも、そんなことがなかった」
イナに対して異性としてではなく同性として、模倣する憧れとしての存在であって、トランスジェンダーとしての僕だったことが明かされる。そして、口づけをして、姉妹になる。神話的です。
しばらく、離れ離れになって、僕は兵役に行き彼女はその後に結婚し、また離婚して、ライブをする。そこで本番前に彼女と話をする。「あたし、根本的に偉大さというものが欠けている」という言葉と彼女が歌った死者の歌。それは極めてネガティブな曲だったので、僕は「エウロパ」をリクエストする。ここで「エウロパ」は僕なんだとわかる。
「フンザ」
「フンザ」はパキスタンの古代の遺跡の街の名前。パキスタンは紛争地域であるアフガニスタンと接しています。宮崎駿は『風の谷のナウシカ』のモデルの地としています。かつての桃源郷は、今では望みのないの街として知られている。彼女はそこを旅して、戻って結婚して、子供がいる生活をしている。その回想の中にフンザが出てくる。
ある寺の樹齢千年以上の樹木に出会う。女性名詞だった木を女の生まれ変わりとして対話する。ダメ夫との間に一児を産んで、自動車事故で子供が怪我をし、そして彼女は運転する恐怖感に憑かれる。猫の死骸をハイウェイで見たのでした。
平和すぎるニュータウンの韓国と紛争地である「フンザ」の記憶。生と死の記憶。ブリジット・フォンティーヌの「ラジオのように」の歌のようです。
「青い石」
二番目の「回復する人間」と同じ二人称で語られている。鷲田清一『死なないでいる理由』で、二人称について、「私」の宛先は「他者性」である私に向けられた他者の喪失という私の喪失が「あなた」という宛先不明の呼びかけなのである。親密な関係性の他者の死。もう一つの自己の死を確認する手続きと書かれていたので、ハン・ガン『回復する人間』だと思った。
突然の人の死は、まだ死者として存在せず(人の頭の中で)、「死なれる」ということを弔いことによって死者となる。人の意識の中では、生きている幽霊のような存在として漂う。二人称の呼びかけは、その作業として弔いが必要なのだと。
例えば戦地や災害で亡くなった場合は、遺体がないので弔うことができない。そういう場合は、長い期間を通して自己内対話で弔っているとも言える。
「左手」
これは会社のハードワークで身体に不調を起こす神経症なんだけど「左手」の暴走が、本来の欲望のままに社会的な抑制が効かない男の物語。これちょっと今までの感じとは作風が違う。ホラー小説のようで面白い。「寄生獣」を連想する。
こういうことは感情のしこりとして思わずやってしまい後から後悔するというのは誰でもあると思うのだが、会社を辞めたり離婚に走ったりするのは、ある意味転落であり、ハン・ガンのこの小説は希望があると思わせながら転落していく人間だった。「シーシュポスの神話」だった。そのあがきの中で生きている。
「火とかげ」
この作品が1番最初に書かれていた。つまり作品の繋がりは時間的ストーリーではなく、空間的なのかな。ある喪失を抱えながら別の他者に転生して生きていく。「火とかげ」も恐ろしい本来の猛毒トカゲではなく「火とかげモドキ」のペットなのだがその名前が「永遠(ヨンウォン)」という。
自動車事故で半身不随になりながら絵を描くことしかないと知りながらも偉大な芸術家になるのではなく(この作品に出てくる絵描きは韓国に実在する画家なのだそうだが、フリーダ・カーロを連想した)、それが私の心の叫びとなって描きたいという願いがある。それは逃げたトカゲが捕まえるときに手を引きちぎってしまったけど再生されたということに重ね合わせる。
光が見えてはまた転落することの繰り返しなのだが、そこに人間の生の姿がある。それは毒を吐くことかもしれず他者との関係性の中で生きざる得ない。次世代の子供が希望として光り輝いているのが救いといえば救いなのか?
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