父の権力は弱体化したが家父長制はしぶとく受け継がれていく体質
『リア家の人々 』橋本治(新潮文庫)
帝大出の文部官僚である礪波文三は、妻との間に3人の娘をもうけた。敗戦後、文三は公職追放の憂き目に逢うが、復職の歓びもつかの間、妻はがんで逝く。やがて姉たちは次々に嫁ぎ、無口な老父と二人暮らしとなった年の離れた末娘の静は、高度成長の喧噪をよそに自分の幸せを探し始めていた。平凡な家族の歳月を、「リア王」の孤独と日本の近代史に重ね、「昭和」の姿を映す傑作長編。
シェイクスピア『リア王』を戦後の日本に重ねた昭和時代小説。『巡礼』『橋』と昭和三部作と言われるらしい。一番最後が『リア家の人々』。橋本治が昭和を振り返るという平成時代。前の2つの作品は重要度高そう。これはまとめに入っているというか、時代を俯瞰した記述だからか、世相を説明しすぎて物語はあまり入ってこない。
シェイクスピア『リア王』との違いは、父親の権力が弱まっているところか。敗戦という中で父親的威厳は、進駐軍に取って代わられ、文三も戦犯として公職追放で無職になった。そこで家を守るのが文三の妻、くが子が三人の娘を抱えながら戦後を生き抜く。そして公職復帰した文三の安定した生活を迎えるのだが、その時に妻は病魔に襲われ亡くなって、文三と三人の娘が残される。文三は妻が入院していたときに小料理屋の女性(亡くなった元同僚の妻で気にかけてはいた)と浮気していて、こともあろうに一周忌に再婚宣言をしてしまう。娘(長女と次女)たちの反抗にあって、あえなくその話は撃沈、父の権威失墜、家を守るのは娘たちの役目になった。
長女はそこそこ家事をするのは家を他の女から守りたいがため。それが亡くなった母との約束だった。しかし、そんな長女も家に出入りする電気屋と関係し妊娠して出ていく。次女はキャリア志向。家事もおざなりだが、姉との確執を持つ為に家を守る。しかし、その次女も結婚することに。三女は、そんな姉たちとは違い父に愛され育った為に家事も自然と身につけていた。
そんな家に文三の妹の息子が東大に入りたいと地方から出てくる。60年後半当時の現代っ子。ちょうど橋本治が東大に入っていた頃だろうか。この甥っ子の視点は、文三の視点と対比されて、60年後半の世相を描く。この頃の小説は、けっこう読んでいたけど、庄司薫『赤ずきんちゃん気をつけて』とか三田誠広『僕って何』がある。大江健三郎も高橋源一郎も志向は違うが描いているので、それほど珍しい小説でもない。ただ橋本治は学生運動には覚めた視点で眺めているのは、この甥っ子が東大入試という受験生でもあり、叔父が官僚でもあるから。過激な学生運動には批判的。その当事者として末娘の恋人である先輩学生が静に向ける女性蔑視的(欲望的)な「体質」は家父長制と変わらないものだ。
しかし末娘の静は、その当時の世相を上手く避けることも出来なかった。自立ということを考えてしまう。父との関係は自然なものなのだが(「体質」という言葉がキーポイントだろう。古典を愛する橋本治は家制度を悪いものとはみなしていない)共依存的関係なのか。それでも当時の社会的風潮は彼女に父離れを促す。ばらばらになった家族の孤立感がテーマか?時代に翻弄される家族の物語。
ツィギーのミニスカート、大鵬の活躍、茶の間の中心がラジオからテレビへの変遷、ラジオは個人の志向へ(深夜放送、これは描かれていないが。ビートルズの流行)。橋本治は学生運動だけではなく若者文化へも言及している。ノンセクト主義。ノンセクトラジカル?静の孤立。東京オリンピック。円谷幸吉の自殺と遺書。
「父上様、母上様、三日とろろ美味しうございました。干し柿、餅も美味しうございました」「父上様、母上様、幸吉はすっかり疲れ切ってしまって走れません」「ご苦労、ご心配をおかけして申し訳ありません。幸吉は父上母上の側で暮らしとうございました」
その遺書の中には遠い昔に失われた「差し出された家族の手の記憶」があった。
文三の孤立感は、「リア王」とは通じる。
関連書籍:シェイクスピア『リア王』