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男性歌人は趣味の短歌で女性歌人は生活短歌か?
『短歌研究2024年9月号』
【第六十回 「短歌研究賞」発表】
受賞作掲載 坂井修一「鴎外守」/山田富士郎「UFO」
講評 馬場あき子/佐佐木幸綱/高野公彦/永田和宏/小池 光
【9月の新作作品集】
三十首
栗木京子「なでしこの鉢」/三枝浩樹「夏の風立つ」/梅内美華子「鳩の巣」
二十首
田宮朋子「海潮音」/玉井清弘「河口」/岡崎裕美子「二〇二四年、諏訪へ」/井上法子「ノスタルジア」/平出 奔「この夏のどこへも行かなかった旅の短さとその前後について(2)」
十首の世界
井口可奈「すずしくなくてつめたい」 /伊舎堂 仁「なんかこうなる」/岩倉 曰「一旦外へ」 /貝澤駿一「サスペンデッド」 /瀬口真司「瀬口真司のローリング・トゥエンティーズ」/田中翠香「神々の夏フェス」/辻 聡之「あかるさへ」/濱松哲朗「夏のいろくづ」 /久永草太「薬味」/森山緋紗「Ylang Ylang」
追悼と検証 村木道彦「ショート・ランナーの『永遠』」
作品十首 再録 「緋の椅子」
寄稿 加藤治郎「村木道彦、自意識の書」/本多正一「せいねんのあとの夕闇」
ルポ 八塚慎一郎「新詩型ライトハイクが結ぶ言葉」
連載
吉川宏志「1970年代短歌史」32
仁尾 智+宮田愛萌「猫には猫の、犬には犬の シーズン2」4
佐藤弓生・千葉 聡 「人生処方歌集」60
書評
高山邦男│三井修歌集『天使領』
川谷ふじの│中村森歌集『太陽帆船』
勺 禰子│影山美智子歌集『白梅玄冬』
畑 彩子│植田珠實歌集『灰桜』
竹中優子│岡本真帆歌集『あかるい花束』
斉藤 梢│長澤ちづ歌集『振り子の時計』
竹村公作│鈴木正樹歌集『砂丘は動く』
紺野万里│仰木奈那子著『亡き子とともに生きる』
瀬口真司│浦川通著『AIは短歌をどう詠むか』
短歌時評=田村穂隆「「定石」とのつきあい方」
作品季評(第131回・後半)=栗木京子(コーディネーター)/田村元/錦見映理子
島田幸典「島の街」/今野寿美「定石」/黒木三千代歌集『草の譜』
歌集歌書評・共選=吉村実紀恵/上條素山
短歌研究詠草 大辻隆弘 選
特選 上嶋晴美
準特選 多治川紀子/鈴木れい子/青山奈未/さとうきいろ/須藤ゆかり/ともえ夕夏/青羽香里/長谷井慶子/角田春美/菊地愛佳/河原美穂子/熊野久美/松岡江威子/藤田健二/福田浩子/熊谷 純
村木道彦
村木道彦は口語短歌を確立した元祖ライト・ヴァースというような歌人か。無思想(ということはないと思うのだが当時の社会詠的歌人とは一線を画す)。ただ言葉の使い方は上手いと思った。
水風呂にみずみちたればとっぷりとくれてうたえるただ麦畑 村木道彦
青春短歌。「麦畑」は「ライ麦畑でつかまえて」を連想する。恋の歌ならば捕まえそこなった青春時代の冷ややかさか。水風呂がサウナ後のみずぶろというか、体育会系の水風呂だよな。「みずみちたれば」のひらがな表記。そこに幼さを感じるが、それが青春というようなみずみずしさ。
するだろう ぼくをすてたるものがたりマシュマロのくちにほおばりながら 村木道彦
セックスを暗示していると思うのだが、すべてひらがな表記にすることによってライトな感覚。マシュマロのくちとか恥ずかしくて言えない言葉も平気。
ましろにはあらぬ縫帯 ひのくれを小指のかたちのままにころがる 村木道彦
文語体の新鮮さ。下の句は意味不明だが日暮れどきに(部活の終わりに)繃帯を転がして巻いていく、小指を立てている女子マネという感じなのかな。
マフラーは風になび交うくび長き少女の縊死を誘うほどの赤 村木道彦
これは未発表原稿で、中井英夫が取らなかった短歌だという。この方面の短歌は消したんだな。それが編集者の目利きというものかもしれない(「小」寺山修司はいらない)。
めをほそめみるものなべてあやうきか あやうし緋色の一脚の椅子 村木道彦
この歌が青春短歌の最後を締めくくるものとして一時引退する。緋色の椅子は一脚としかなかったのだ。いつまでも青春短歌ではいられないのだ。
俵万智が村木道夫短歌に出会って開眼したのも面白いと思う。そして俵万智は演じることによって、青春短歌を脱皮していった。
壮年期過ぎむとしつつ一人称「われ」といへどもはるかなる他者 村木道彦
引退後の第二歌集は支持されなかった。そのもがきがこの歌にはあると思う。一人称短歌の罠なのか?
1970年代短歌史
吉川宏志「1970年代短歌史「アルカディア」の刊行」。岡井隆時評集『時の狭間』には、70年の終わりに80年代の未来の短歌に向けて辛辣な批評を投げかけた。
「結社の存在を──師弟関係の存続を疑わない人々。何々賞受賞などということをことごろしく言う人々。戦後えお生きてきた人間にとって、痴呆的に明るい歌壇の昨今である。わたしは、もっと不安に、顔をひきつらせて、必死に、この詩形の存否を──つまり、日本文化の根幹とやらの危うさを、問いかえすような作家の出現を期待したいのである。今はそれがなさすぎるのだ」
『アルカディア』はギリシア神話の理想郷のことで岡井隆の批評を受けて高水準の作品(志が高いという感じか)を提示したという。メンバーは小池光、滝耕作、藤森益弘、松平修文でいずれも三十代の若手が編集員だった。
山陰にあかき鳥とぶ少年と少女ふとんをつなげてねむり 松平修文
村の民話のような神話的な雰囲気の中にエロティシズムが潜む。松平は日本画家でもあり、そのイメージがよく出ているという。
福島泰樹は全共闘世代の政治的な傷を負ってない、その文体の明るく大らかなのが時代の変化を感じている。つまり岡井隆のような批評は受け付けないのだ。
海上に髪洗いおればひたすらにかなた滑走の雲たちのあり 滝耕作
一冊の歌集で7割が海の歌だという。滑走(ちりぢりに逃げること)する雲が印象的な句なのだが、この歌集のテーマは環境汚染であり、国家論的政治状況から環境論としての日本を守ろうという歌なのだ。そこに日本の歌の伝統を見出す姿があり、前世代の前衛短歌とは一線を画す。
すでにして詩歌黄昏 くわうこんくれなゐのかりがねぞわがこころをわたる 塚本邦雄
歌はただ此の世の外の五位の声端的に今結語を言へば 岡井隆
塚本邦雄も岡井隆も短歌の方法論を歌った歌だが『アルカディア』の面々は、そういう方法論に立ち止まった歌は詠まないと宣言する。それは短歌形式を問うことはなく伝統短歌の方法論で行くということだ。そして、そのことに対して論争も起きなかった。前衛短歌の批評性はもはや必要とはされずに鎮魂と短歌の技術論による評価と当たり前の日常を日記代わりに読むというような現代に通じていく。そこで問われたのは家族ということで、女性歌人が活躍するのもこの頃からである。
隣家なる「家族の事情」のもの音をアルミ・サッシュの窓閉ぢて絶つ 小池光
男性歌人は国家の存在が薄くなって、文学運動も消滅し、消費文化の中で女性歌人たちが高々と家族を歌うのだった。小池は日の丸とお子様ランチを並列して歌うことで国家と家族の共犯関係を歌っていく。それが80年代的な明るさと不安を持って迎えられるのだ。
作品季評
栗木京子(コーディネーター)、田村元、錦見映理子。
栗木京子以外ほとんど知らなかった。
二人とも若いが田村元は平成元年だった。それで元?前の論評の続きで季評を詠んでいくと、確かに家族中心の歌が多い気がする。
島田幸典『島の街』は神戸六甲アイランドの埋め立て地の新興住宅地。人工の島というハイソな感じがする歌。
海上に聞きし街に住まふ人二万大小の犬も移り来 島田幸典
高層マンション玄関に見ゆるショルティに繋がり紐の端をもつ人 島田幸典
「ショルティ」は「ショットランド・シープ・ドッグ」だと。ついて行けない。ハイソな生活をしている人の歌なんだが、こういう歌が需要があるのか?とても作れないけど。
今野寿美『定石』
文学方法論的な歌から社会詠でわりと好感が持てる。題詠だったようで辰年生まれの人というのがテーマの歌。
母は寅わたしは辰のああ皐月 昌子が寅と知れば肯く 今野寿美
今年辰年か?もう年賀状出さないからわからなくなっている。元号もわからないし。
じわじわと再び毒を盛られると知ってたらうにナワリヌイ氏は 今野寿美
毒盛るは戦国の世に非力なる女の定石なりけるものを
下の歌は古代中国の戦国時代で女たちが毒殺をしたことを定石と言っているのだ。二連一組の歌。辰年から始まってナワリヌイ氏から宮沢賢治、松本清張、そしてピーター&マリーと展開していくらし。
撃たれた………とジョン・レノン逝き love me alone.放っといて とダイアナさん果つ 今野寿美
正月のゲームのような歌なのかな。ジョン・レノンも辰年だそうだ(どうでもいいけど、何故ならイギリスに干支があるはずもない)かなりのテクニシャンのようだ。
黒木三千代歌集『草の譜』。黒木三千代は岡井隆の弟子だそうだ。家族の死や師の追悼歌や社会詠とバラエティに富んでいるがこの人は社会詠を詠むのが得意みたい。
ストーカーのやうなロシアの遣り口の いやだつて言ふのに、放してほしいのに 黒木三千代
侵攻はレイプに似つつ八月の涸谷 わじ超えてきし砂にまみるる 黒木三千代
けっこう歌人から人気がある人のようだ。
ユキノシタのうぶ毛指の腹に撫でながらこどものわたしゆまりせしかな 黒木三千代
「ゆまり」はおしっこだという。古語だとわからんな。おしっこの俳句は子規も進めていたけど短歌では珍しいのかもしれない。
三枝浩樹『夏の風立つ』
まだ短歌の技術的なことはよくわからないので、内容から入っていくしかないのだが、趣味が合う合わないの問題なのかなと思う。この作品三十首は、漱石の小説を詠んでいた。
こころさんと初めて会った 清いすが やかな笑みと涼しい眼の人だった 三枝浩樹
これだけだと作者の知り合いのことだと思うが、後に歌で次第に漱石の小説だとわかるようになってくる。「こころね」という各歌に挿入されたくり返し、これは先生の奥さんのことだと想像する。
『それから』『門』『心』へと到る問いの波 その問いを負いありし近代 三枝浩樹
厳密に書くと漢字ではなくひらがなで『こころ』なんだが。
人知れずかかえし思い 「先生」の語ることばはただ静かにて 三枝浩樹
登場人物が想像できるのがいい。文学好きなのだけどこれが「鴎外」だとあまり興味がわかない。「短歌研究賞」受賞作、坂井修一『鷗外守』はいまいちよくわからなかった。
鷗外がリアル・えりすに書のこす「つまらないから読むなこの本」 坂井修一
この歌はおもしろいけど、他人がどんな本を読もうと勝手なのに、そうしてコントロールすると思ってしまうのだ。
中心にいつも〈わたし〉がいるらしい 夏野の草の上に寝ころぶ 三枝浩樹
青春時代だよな。読書の内容についてのこんな歌も。
間 はざまとは神います場所 きみとわれ、男と女、人と自然の… 三枝浩樹
句跨りなのか?でも字余りだよな。短歌は自由だ。
平出奔『この夏のどこへも行かなかった旅の短さとその前後について(2)』
(2)であるということは(1)もあるということなのか?けっこう挑戦的な書き方で面白い。1996年(平成8年)生まれ。若い。今ふうの短歌なのだろうか?
星がみっつ 僕はそのローカルタレントをローカルタレントという概念を知る前から知っていた 平出奔
もう定型なんてほとんど必要としてない感じだ。
そんな気持ちをくらべるのは大変だからセックスはもうおじさんの趣味 平出奔
身体的じゃなく脳内で生きている感じがする。
佐藤モニカ『いにしへの盾』六十首
だいたい趣味的なことを詠むのは男性歌人に多く、女性歌人は生活とか家族を詠むのがいまいちだと思ってしまうのだが、佐藤モニカ『いにしへの盾』六十首はよかった。六十首もページが与えられているのだから特別なことなのだろう。
子の漢字ノートに幾度も書かれたり生きる生きる生きるの文字が 佐藤モニカ
ちょっとドキってする歌だが、子が自殺したいとかではなく、母が癌で手術しなければならなくなったときのものだろうと思う。家族詠かと思ったら境涯詠だった。
子の好きなアニメ「はたらく細胞」に強敵としてがん細胞あり 佐藤モニカ
ある朝を紋章のごと鳥はゐていにしへの盾くきやかに見ゆ 佐藤モニカ
手術が終わってベランダに鳥を見た情景だと思う。それがタイトルになっていた。
『短歌研究賞』は坂井修一『鷗外守』と山田富士郎『UFO』の二人同時受賞。山田富士郎『UFO』も趣味がちがった。天文が好きな人向け短歌。