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令月のピアニスト

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情報化が先鋭化し、効率的な過ごし方をみんなが共有する時代になっても、自分の気持ちだけは誰とも共有できない。密集とコミュニケーション種類の多岐化・複雑化・深化は引力が強いがゆえに心…
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#小説

『令月のピアニスト』13/13 駅ピアノ

『令月のピアニスト』13/13 駅ピアノ

 こんなところにも駅ピアノがある!
 札幌雪祭りへの旅道中、新幹線からの乗り換えで新函館北斗駅で降りたった際、構内のグランド・ピアノが目に止まった。
「弾いたことある?」と円日が訊いてくる。彼女はグランド・ピアノを言っている。
「ないよ」、恐れ多くてそんな異次元には踏み入れない。
「弾いた弦が、子宮の奥に響いてくるのよ」
「子宮の奥? ぼくにはないからわからない」、マツを経由して任子も同じような

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『令月のピアニスト』12/13 自己満足のピアノを聴かれる心境

『令月のピアニスト』12/13 自己満足のピアノを聴かれる心境

 夏が終わり、秋も暮れに向かって急ぎ足になっていた。
 年の瀬を迎える間際、公私ともにクソ忙しいのにマツは挙式を終えた足でハネムーンに旅立っていった。そのマツが、頻繁にFacebook に写真とコメントを海外からアップしている。動画もあって、そのひとつを再生してみた。
 マツが任子の後姿を追いかけている。コメントが喘ぎ気味なのは、急ぎ足の彼女に追いつかないからだろう。
 待てってば、アツコ。
 ん

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『令月のピアニスト』11/13 泣いてなんかいないんだ

『令月のピアニスト』11/13 泣いてなんかいないんだ

「ひとつ訊きたいんだけど」

 王子で会った翌週、大久保のまた違ったベトナム料理店でぼくは粕賀に切り出した。
「なんですか、あらたまって」
「この前、人の名前だか名称だか、ドン・ジョンソンみたいなこと言ったよな」
 粕賀は投じられた石が湖上で波紋を広げるように、知識の探知機でぼくの問いかけの解答を探している。少女が困ったような唇を突き出した仕草で、答えをたどっている。それを無垢と受け取るかあざとい

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『令月のピアニスト』10/13 幻想曲風ソナタ『月光』

『令月のピアニスト』10/13 幻想曲風ソナタ『月光』

 駅に向かいがてら「もてたのかと思ったよ」と照れ隠しでおどけて言ってみせた。待ち伏せされたとすれば期待もあるという思いが掠めた気の迷い、うっかり口からこぼれ落ちた。
「まさかあ、田所さんとは」と粕賀に渋い顔をされた。
 冗談のつもりで言ったはずなのに、粕賀の返答に胸がずきんと痛んだ。冗談だったんだよ、そう自分に言い訳をする。あれは、心の隙間が出現させた感情の逢魔が時のせいなんだと。
 しばらくは誰

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『令月のピアニスト』9/13 見せかけだったあんぽんたん

『令月のピアニスト』9/13 見せかけだったあんぽんたん

「ですから言っているじゃないですか」
 横やりが、楽譜の物色という当初の目論見をみごとにはがしてしまった。代わりにぼくは粕賀と深夜の喫茶店にいる。ぼくはアイス・コーヒー、彼女は冷たい抹茶ラテで間を保っている。
 窓の外をカップルやら同僚との飲み会のグループやらが不定期に通り過ぎていった。話をしていることがガラス越しにわかる。だが、何を話しているのかはガラスの厚みが邪魔をしてわからない。高架の上を電

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『令月のピアニスト』8/13 追い抜かれ追いつかれた日

『令月のピアニスト』8/13 追い抜かれ追いつかれた日

 ネットをサーフすると、フジコ・ハミングも辻井信行も、名だたるピアニストの演奏が聴ける。テレビの駅ピアノ、空港ピアノ以外にも、ストリート・ピアノもあれば、ピアノを設置した音楽室を提供する自治体が存在することも知った。
 情報網の波で見つけたいちばんの収穫は、YouTubeにはピアノの先生があふれていると知ったことだった。主にアメリカのサイトではネット・レッスンがポピュラーなのか、クラシックからジャ

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『令月のピアニスト』7/13 追われていない顔

『令月のピアニスト』7/13 追われていない顔

 クライアントへの仕様書提出は、こちら側で仕上げたものに赤字を入れてもらうことで決着した。急ぎの案件もないし、この日も9時前には会社を出られそうだった。
 残業が伸びない日は、家でピアノ。つまずいている『イマジン』5小節目が目下、飛び越えるべきハードルになっている。
 いっぽう、つまずきの要因も見えてきた。楽譜に書かれた音符が多く、リズムが複雑化すると、音符の音への変換機能がフリーズしてしまうのだ

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『令月のピアニスト』6/13 十日夜(とうかんや)から満月までの5日間

『令月のピアニスト』6/13 十日夜(とうかんや)から満月までの5日間

「これじゃ全然わからない。矛盾だらけだしぃ」
 予感は的中し、起爆スイッチが押されていた。クライアントを前に、粕賀が啖呵を切ってしまった。しかも40代後半の管理職にため口である。
「ふざけないでくれたまえ」
 憤怒の爆煙から顔を突き出した管理職は、頬を紅潮させている。

 クライアントはお金も出すが口も出す。多くのクライアントがそうだ。お金は出すが口は出さない神対応のクライアントは今では噂さえ聞く

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『令月のピアニスト』5/13 Take the A Train

『令月のピアニスト』5/13 Take the A Train

 開いた『イマジン』には五線譜の上にコードが書かれている。曲の出だしはCで、次はF。Cはドミソ。Fはドファラ。ギターで知った知識だ。それをピアノにあてはめてみる。右手親指でド、同じく人差し指でミ、薬指でソ。指は、それぞれの鍵盤の上にある。あとは3本の指を同時に振り下ろすだけだ。
 ジャン。たしかにCの和音。
 ドファラのF、ジャン。うん、これこれ、この音。だがこれはまだ曲じゃない。でもそれは、千里

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『令月のピアニスト』4/13 不覚事件が引いたトリガー

『令月のピアニスト』4/13 不覚事件が引いたトリガー

 連休が明けると、遅い出社と遅い帰宅の毎日に戻っていった。休みのあいだ何をした記憶も残っていない。テレビを観て消して、コンビニで食いもん買って食って容器を溜めて大きなゴミ袋をふたつ作り、10回眠ったらいつもの仕事に戻っていた。
 納期から逆算して組むスケジュール、バッファを確保するのはバグほか不慮の事態に備えてのこと、部署のスタッフ5人を束ねての進捗管理、仕上がったプログラムの確認作業。責任感に背

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『令月のピアニスト』3/13 実力がないがゆえの手詰まり

『令月のピアニスト』3/13 実力がないがゆえの手詰まり

 5月の大型連休がはじまるまで五月晴れならぬ卯月晴れの勤務日がつづいたが、休みに入るととたんに雨。吸い込む空気さえ湿気を帯び、おまけに梅雨寒みたいに気温が下がったせいでベッドから離れられない。

 妻がいなくなって3週間ほど過ぎていた。台所を磨く者もいなくなり、残された1本の歯ブラシがこめかみの疼きにのせて哀愁を深めていく。フローリングの床に発生した埃の塊が、日に日に増殖していった。
 不思議なこ

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『令月のピアニスト』2/13 去る者とやって来る物

『令月のピアニスト』2/13 去る者とやって来る物

「田所さん、お電話。松元さんという男の人から(♪)。よく電話をくれる方ですね」
 末席の粕賀がいつもの調子で私語のない職場に能天気な声を響かせる。
 カタカタとキーボードでテキストを積み上げては、ツツツーとデリート、打ち直してはゴールに向けて黙々と流れていく時間に無駄口はいらない。とくに今日みたいな日には鬱陶しさに輪がかかる。余計なことは言わんでよろしい。

--仕事中悪い。すぐ済むから少しいいか

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『令月のピアニスト』1/13 無自覚の不覚

『令月のピアニスト』1/13 無自覚の不覚

 ふだん外飲みしないぼくが、久しぶりに深酒をした。忘れるための酒ではない。カミュは太陽のせいにしたけれど、月がひときわ地球に接近していたことが関係していたかもしれない。月の引力に潮流が引き上げられたことで、我を譲らぬネオンが重なり、浮き足だった繁華街に蠢く雑多な欲望と駆け引きにぼくはまんまと担がれたのだ。
(スーパー・ムーンのせいさ)と路地の奥から声がした。
「月の誘惑。狼男だって、満月に導かれて

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