『令月のピアニスト』11/13 泣いてなんかいないんだ
「ひとつ訊きたいんだけど」
王子で会った翌週、大久保のまた違ったベトナム料理店でぼくは粕賀に切り出した。
「なんですか、あらたまって」
「この前、人の名前だか名称だか、ドン・ジョンソンみたいなこと言ったよな」
粕賀は投じられた石が湖上で波紋を広げるように、知識の探知機でぼくの問いかけの解答を探している。少女が困ったような唇を突き出した仕草で、答えをたどっている。それを無垢と受け取るかあざといと受け止めるか、粕賀の解答次第だった。
「ああっ」、目的のものに辿り着いたのか、声をあげた粕賀が、手のひらを打った合点を顔に表した。「近いけど違いましたあ」。
ぼくは粕賀が、投じた質問を正面から受け止めるかすんでのところで躱すのか、どちらに転ぶかを待ちかまえていた。なのに彼女はあらぬ方から返答を発し、話をはぐらかせた。いつものやつだ。人生を舐めているのか、世俗にあくせくするせわしなさを達観からあしらっているのか、なんとも捉えどころのない雲のような身のこなし。
「ダン・タイソン」とたしなめるように言ってから「どちらもおじさまに変わりないけど。それにふたりとも素敵です。田所さんも!」
「いや、そうじゃなく」
聞きたいのは、アジア人で初めてショパン・コンクールで優勝したベトナム・ハノイ出身のピアニストと粕賀との関わりだった。
「コンサートに行ったことがあるんです」
「それだけ?」
「それだけです」
「ハノイまで?」
「母に連れていかれただけだからよくわからないけど」
「そのときピアノを弾いたよね」、ぼくはカマをかけた。
粕賀が口元を固く結び、うんざりした顔を横に向けた。ふれられたくない話だったのだろうか?
彼女は横を向いたきり首を左右に振っただけで、答えは粕賀の胸の内にしまわれてしまった。彼女には彼女の、人に話したくない事情がある。ぼくにだってあるのだ。内情は知らない。だけど似たような感情が共鳴し合った、そんな気がした。
ぼくが何も聞くまいと決め口を噤むと、彼女は「私の恥ずかしくて悔しい思い出のひとつです」と、まるで覚悟を決めたように目を逸らしたまま教えてくれた。それから意を決し、ぼくの目を見すえる。瞳が朧月のように揺れている。一瞬月が迫ってきたのかと思った。彼女の吐息がぼくの頬をかすめ、直後に粕賀の唇から温度が伝わってきた。共鳴を共有してもいいじゃないか、そう思ったのはぼくだけではなかった。彼女の意思が唇を通して流れ込んできた。彼女の唇もまた、痛みで濡れたぼくの心みたいに潤んでいた。
抵抗を繕いながら、彼女から身を躱すふりをしながら、もしかしたらぼくは蓋をしてしまった心の奥底で彼女に近づきたいと思っていたのかもしれなかった。得体の知れない不思議な娘に、呆れ顔を突きつけながら本心では自分にはかなわない力を持ち合わせた彼女に畏敬し惹き寄せられていたのだ、きっと。ふれた唇が離れるとき、切なさがぼくを襲った。
その夜、粕賀を「マドカ」と呼んだ。彼女の恥じらいを慈しみ、広がる吐息に溺れ、豊満な肉体にいきり勃ち、大胆不敵さに昂まり畏怖し心を捕われ、絞り取られるように射精した。ホテルの窓に月明かりがあたっていた。月明かりは窓をすり抜けてぼくの背中を照らしている。ぼくの下で円日が息を整えようと呼吸を早くしている。
唇を離したときのように吸いつきあった体を離すと、円日の体を月明かりが照らし出した。光は波打ち、彼女の肌を縦横に泳いでいく。円日の肌に這う月光はその後彼女の肌から内部に染み入っていく。次第に光り出した肉体が眩しくて目が眩む。と同時に愛おしさと切なさが込み上げてきて、ぼくは彼女を抱きしめたい衝動に駆られ、背中に腕をもぐりこませた。
ぼくは円日を包み、光に溶けた円日に包まれている。彼女は紛れもなくぼくを捉え、微笑み、含もうとした。甘く居心地のいい瞬間。それは繭を連想させ、挿入に掻き立て、ふれるかふれぬかの間際で焦らされ、握られ、離され、疼きが思考を飛び越えて。そしてもうひとつのぼくがもっと強く立ち上がり、求め求められ、狂い、それから一気に昇りつめると頂点を境に無音無色の世界に突入した。
ぼくは、やっと果てることができたと思った。安堵に包まれた先にあるそれは、失って以来、ずっとぼくが求めていたものだった。
こんなに近くにいたのに、気づかなかった。ごめんと口に出すと、とろけしなだれ彼女の乳房に伏せた顔から落ちた涙が落ち広がっていくのがかすんで見えた。
泣いているの?
泣いてなんかいるもんか。
そうね。田所さんは泣かない。泣いても泣いたとは言わない。弾けるのに弾けないという人だもの。
ばかなことを言うもんじゃない、言ったぼくは彼女を強く抱きしめていた。
この道に“才”があるかどうかのバロメーターだと意を決し。ご判断いただければ幸いです。さて…。