仏教の核心的な問題の一つは、釈尊(仏陀、ゴータマ・シッダールタ)が何を悟ったのかが未だに明確でない点だ。釈尊が悟ったとされる「縁起」の概念についても、それが本当に釈尊自身が悟ったものなのか、後世の創作物なのかという疑問がつきまとう。しかし、釈尊の悟りはこれらの教えを超えたもっと根源的なものであろうと推測される。
まず、釈尊が実際に悟った内容について触れてみよう。一般的な理解では、釈尊は「四諦」と呼ばれる教えを説き、人々に苦しみからの解放を説いたとされる。釈尊が生涯を通じて最も関心を持っていたのは、「苦しみの原因」と「その克服方法」だ。彼は人間の存在そのものが苦しみに満ちていることを認識し、その原因を探求する中で「縁起」の概念に到達した。しかし、縁起は単なる哲学的な理論ではなく、具体的な実践を通じて理解されるべきものである。
多くの人々は釈尊を超自然的な存在、あるいは神格化された人物と見なしている。しかし、彼はむしろ、実際に生活の中で苦しみと向き合い、その解決策を見つけ出した一人の人間として捉えるべきではないだろうか。釈尊は奇跡を起こす超能力者ではなく、人間の心理と行動を深く理解し、それを基に具体的な修行法を提示した人物なのだ。
これらを踏まえると、釈尊が悟ったとされる「縁起」が、後の創作物かどうかという問題は重要ではなくなる。むしろ、縁起の教えをどのように実生活に適用し、苦しみから解放されるかが核心である。
釈尊の最大の関心事は「実践的な悟り」にあったと考えられる言える。彼は哲学的な議論よりも、実際の生活の中で苦しみを減らすための具体的な方法を重視した。これが、釈尊の教えの本質であり、彼が実際に悟ったことなのだ。
釈尊の出家
九次第定(くしだいじょう)
初禅・第二禅・第三禅・第四禅・空無辺処定・識無辺処定・無所有処定・非想非非想処定・滅尽定
釈尊が最初の解脱者という誤解
中村元先生の説に対して、宮元啓一先生のように「釈尊は最初の解脱者」という考えを持つ人が多いが、釈尊以前の解脱者は存在する。
シャーンディルヤ(シャーンディリヤ)
ヤージュニャヴァルキヤ
ウッダーラカ・アールニ
涅槃(ニルヴァーナ)=解脱の境地(煩悩消滅)
煩悩の定義
引用した文章から解釈できるのは「煩悩の火の消えた汚れなき状態」が涅槃であることを示している。ニルヴァーナの本来の意味は「吹き消すこと」であり、それが転じて煩悩の火が消えた境地を指すようになった。ブッダは自分が悟ったことを示し、その状態を煩悩の火の消えた汚れなきものだと言っている。
ブッダは自身が解脱したと述べ、その教えを信じる者もまた解脱し、二度と生まれ変わることはないと保証している。解脱した結果として心が清らかになるその状態が涅槃であり、仏教ではこれを同義と考えるべきである。
大乗仏教になると解釈が複雑になるが、釈尊が言った意味では解脱と涅槃はほぼ同義であり、解脱とは二度と生まれ変わらないことを意味する。涅槃はその結果として到達する心の清らかな境地である。
要は、解脱と涅槃は密接に関連しており、解脱した状態の心の清らかさを涅槃と呼ぶことだ。そして、煩悩とは何かという問いが残る。
性欲は煩悩なのか?
性欲という煩悩が完全に消えると生きることができない。これは煩悩がフロイトのリビドー、生命欲と同じだからだ。ブッダも性欲と生命欲を「渇愛」として説明しており、生命欲、性欲、死の欲望が一つになったものだ。煩悩が完全に消え去ると生きていないことになる。解脱者も性欲や睡眠欲は存在する。
睡眠欲は煩悩ではない。正しく生きるために必要だからだ。どんな苦行者でも睡眠は必要で、適切な栄養を取って体を健康に保つことも不可欠だ。適切な食欲、睡眠欲、性欲は当たり前のことで煩悩ではない。しかし、過剰な貪欲や異常な性欲は煩悩といえよう。
中道、四聖諦、八正道
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