無能唱元先生「楽する人」より
《真の平和とは、ありのままに見るということ》
理想と平和という二つの概念が私たちの心理や行動にどのように影響を及ぼすかを、深い哲学的視点から考察しています。
このテーマに触れたとき、私の心に浮かんだのは、物理学者リチャード・ファインマンが語った「物事をシンプルに理解することの難しさ」という言葉です。理想と平和も、一見すると相反する性質を持ちながら、その本質を明確に理解するのは意外と難しいものです。
まず、理想とは未来を指し示すものであり、人々はその実現に向けて努力します。しかし、いざ理想が現実のものとなった瞬間、それは「日常」へと姿を変え、もはや理想ではなくなります。理想はまるで蜃気楼のように、追いかけるほど遠ざかる存在なのです。この性質は、古代ギリシャの哲学者ゼノンが提唱した「アキレスと亀」のパラドックスにも似ています。いくらアキレスが走っても亀に追いつけないように、理想もまた私たちの手が届かない先にあり続けるのです。
一方、平和とは「今、この瞬間」にしか存在しません。それは外的な状況ではなく、内面的な状態から生まれるものです。たとえば、静まり返った湖面を思い浮かべてみてください。その静けさは、どんなに外が騒がしくても心の中に湧き上がる平安を象徴しています。ところが、平和を「理想」として追い求めると、不思議なことに平和そのものが失われてしまうのです。ここには明らかな逆説があります。平和を求めることが、平和を壊す原因になり得るのです。
興味深いのは、理想が私たちを「奮い立たせる」のに対し、平和は「心を静める」という点です。この違いは神経科学の視点からも説明できます。理想を追い求めると、興奮やストレスに伴い交感神経が優位になります。一方、平和を感じてリラックスしているときには、副交感神経が優位になるのです。このように、理想を追う行為そのものが、生物学的にも平和とは相容れない側面を持っているといえます。
また、「未来の平和」を追い求めることで、結果的に「現在の平和」を犠牲にしてしまうことも指摘されています。歴史を振り返れば、「未来の平和」という大義名分のもとで戦争が繰り返されてきた例は数多く存在します。たとえば、第二次世界大戦中に歌われた「東洋平和のためならば」という軍歌は、現在の平和を破壊することで未来を正当化する矛盾を象徴しています。この皮肉は、現代においても「平和のための戦争」という言葉として形を変えています。その裏にある不条理は、何ともやりきれないものです。
インドの哲人クリシュナムルティの言葉「平和は明日にはない」は、このテーマの核心を突いています。未来を追い求める行為そのものが、今という瞬間を見失わせるのです。この考え方は、仏教の「今ここ」に意識を集中する教えとも一致します。たとえば、禅僧が茶を点てる際に感じる静けさは、未来への執着を手放すことで得られる「今」に根ざした平和です。
最後に、この文章の結論として述べられている「平和とは、理想を捨てた瞬間、即座に現れるもの」という言葉は、非常に深い意味を持っています。
「理想を捨てる」という行為には勇気が必要です。人は多くの場合、希望や目標に生きるエネルギーを見いだします。そのため、そうした幻想を手放すのは容易ではありません。しかし、真に平和を得たいなら、その困難に向き合う覚悟が必要だということなのでしょう。
理想は確かに美しいものです。しかし、平和にはより深い価値があります。それはまるで、湖面に映る静寂を愛でるような感覚です。蜃気楼を追い続けるのか、それとも今ここにある静けさを受け入れるのか——それを選ぶのは、結局のところ私たち一人ひとりなのです。
以下本文より引用
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