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五蘊無我(五蘊非我)【仏教の基礎知識03】

五蘊とは

五蘊とは、色・受・想・行・識のことを指す。
原義では「5つの集合体・グループ・コレクション」を意味する。蘊は集まり、同類のものの集積を指す。仏教では五取蘊として、色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊の総称となり、物質界と精神界の両面にわたるすべての有為法を示す。この五つをまとめて五蘊とも呼び、五陰とも書かれる。これは人間の肉体と精神を5つの集まりに分けて示したものである。

「アッギヴェッサーナよ、これをどのように思うか。
人間の肉体(色)は恒常であろうか無常であろうか。」
「無常です、大徳よ。」
「それでは、無常なものは、苦であろうか楽であろうか。」
「苦です、大徳よ。」
「それでは、無常であり、苦であり、変異するものを、これは我がものである、これは我である、これは我がアートマンである、ということは正しいであろうか。」
「いいえ、大徳よ。」
「アッギヴェッサーナよ、それではこれをどのように思うか。
感覚(受)や思考(想)や意志(行)や意識(識)[などの人間の心の部分]は、恒常であろうか無常であろうか。」
「無常です、大徳よ。」
「それでは、無常なものは、苦であろうか楽であろうか。」
「苦です、大徳よ。」
「それでは、無常であり、苦であり、変異するものを、これは我がものである、これは我である、これは我がアートマンである、ということは正しいであろうか。」
「いいえ、大徳よ。」

[マッジマニカーヤ 35:20]

人間の肉体を「色」として表現していることから、「色(ルーパ/rūpa)」は肉体そのものを意味すると翻訳者が理解していることがわかる。つまり、自分自身を構成する物質的な存在を指しているわけで、外界の物とは異なる。そして、受・想・行・識は心や精神の側面を分けて説明している。
色(肉体)
受(感覚)
想(思考)
行(意志)
識(意識)

微細体と原因体の構造

コーザル体(歓喜鞘=原因体)
メンタル体(理智鞘)
アストラル体(意思鞘)
エーテル体
肉体
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微細体=アストラル体(意思鞘)+メンタル体(理智鞘)

コーザル体(原因体)の中に入っているもの

  • プラクリティ(自性・原質)

  • 我執(アハンカーラ)

  • 心素(チッタ)=種子しゅうじ
    ※行(サンスカーラ)は心素に記録されている情報

  • 真我(プルシャ)

阿頼耶識

コーザル体(原因体)=大(マハット)
メンタル体(理智鞘)=理智(ブッディ)
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阿頼耶識=大(マハット)+覚・理智(ブッディ)

種子しゅうじから現行げんぎょうを生じる過程を専門的には〈種子生現行しゅうじしょうげんぎょう〉、現行が種子を植えつける過程を〈現行熏種子げんぎょうくんしゅうじ〉という。熏とは熏習くんじゅうのこと。また阿頼耶識の中で種子が次々と自己自身を生みながら生長する過程を〈種子生種子〉という。(p125)
熏習とは、「無始以来の熏習」といわれるように、初めなき永遠のむかしから、絶えることなくつづいてきた、そして、未来永劫にわたってつづくかも知れない現象をいうのである。仏教は、キリスト教とちがって神のごとき究極的実在者をたてない。ただ実在するのは、何ものかの流れ、それも果てることなく永遠に流れつづける流れである。果てることもなく戦争・飢餓・虚無を背負って歩みつづける人類の歴史を考えるとき、「無始以来の熏習」という言葉こそ、全存在の本質を鋭く指摘した素晴らしい表現であることに気づくであろう。(p128-129)

[「唯識思想入門」横山紘一/レグルス文庫 66]

五蘊(スカンダ)

五蘊 スカンダ skandha の訳。
五蘊とは色蘊(物質)・受蘊(印象感覚)・想蘊(知覚・表象)・行蘊(意志その他の心作用など)・識蘊(心)の総称。
受・想・行は大体において心のはたらきを表わすから、五蘊は物質界と精神界との両面にわたる一切の有為法(因縁によって生じたもの)を示す。

従来、は「イメージ化作用」、は「意志作用」、は「識別作用」といったような解釈が行われてきたが、これでは心の作用を一貫したものとして説明したことにはならない。
というのは、受によって得られた知覚情報の中身を、言語化、概念化する以前に識別、区分する作用(言語論でよくいわれる分節化作用)である。たとえば、視覚でいえば、によって与えられた一面無区別の知覚風景を、色やかたちによって区分けすることである。は、記憶、ないし記憶からことばや概念を取り出して、によって識別された知覚情報と照合する作用のことである。
は、ものごとを形成する力、ないしそうした力をもつもののこといい、インド哲学では、メンタルには記憶を指すというのが一般的である。行を意志とか意志作用とする実例を、筆者は知らない。は、こうしてことばや概念と照合された知覚情報をもとにして、たとえば「これは牛である」というように、具体的に判断を下すことである。
と、このように受から識までを解釈することによって、われわれは、情報受容から判断にいたる明快なプロセスを得るのである。

[インドにおける自己論の構造:宮元啓一]

参考文献


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青樹謙慈(アオキケンヂ)
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