夏から逃げられない僕と、体育館裏の彼女。
多分、一生逃げられないのだ。
***
ボランティアで母校に行った。
毎年言われる「例年にない暑さ」の日だった。
人手不足と高齢化が進む学校運営なんたらという地元有志で構成される団体の、手伝いに。
体育館裏の草むしりをした。
夏草のムワッとした空気と体育館の熱気の狭間に訪れる涼しい風。
僕はようやく忘れられそうだった高校時代を思い出してしまった。
結局、逃げられないのだと観念し、諦めてスマホで「高校野球 OO県 夏の大会」と調べた。
8日開幕だそうだ。甲子園をかけた夏。
一発勝負の、集大成。
"最後の夏"から5年、君との約束から9年。
僕はいまだに君から、夏から逃れられない。
君は言った。「君は甲子園に出るんだろう。私はインハイだ」と。
あまりにもベタな、いかにも中学生な約束。
恋に恋する中学生。夢は叶うと信じて疑わなかった中学生。
僕は言った。「甲子園に出たら・・・どうしようか」
君は言った。「手でも繋ごう。そして写真を1枚だけ撮ろう」
話し方がちょっと変な彼女。
ショートカットに大きな瞳にほんのり赤い頬。
僕らは14歳の夏に夢を語り合った。
放課後の体育館裏で涼みながら。
毎週木曜日が共通の休みだった。
僕らは毎週木曜日の放課後に時間をズラして待ち合わせて30分だけの集会をした。
夏草のムワッとした空気と体育館の熱気との隙間で、僕らは涼む。誰も知らない僕らだけの避暑地。
万が一人が来ても「友人ですが何か?」と言えるように人ひとり分の距離を保つ。
いつも10分くらいウォーミングアップをしてから僕が腕を横に伸ばす。
君もそうした。
秒速5cmで接近する僕らの手。
やがて指がコツンと会釈し、手は方向を変えることなく結びつく。
それが自然であるかのように、互いに前を向いたまま。
君は僕と話す。
高校はバスケが強いところに行くのだとか、僕はこの学校で甲子園を目指すのだとか。あるいは今日の英語の授業のことなんかを。
時折僕らは、バレー部の力強い掛け声に隠れて、囁き合った。なにかを。
辺りを確認してからそっと口付けをする。
そして何事もなかったかのような顔をしてまた、夢を語り合い、キスをして、しばらくして僕らは時間をズラして体育館を後にする。
なんでも叶うと信じた中学時代。
とても幸せな時間だった。
しかし僕らはそれからなんらかの事情があってすれ違いが増え、卒業する頃にはほとんど口をきかなくなってしまった。
思春期の、交通事故のような恋。
昨日までの関係が煙のように消えることなんてよくある話だ。
恋に関係なく友人でも。ふとしたタイミングで全く話さなくなることなんてザラにある。
僕は彼女のことが忘れられなかった。
拗らせていたのだろう。
僕はまた体育館裏での過ごした時間を取り戻したくて、必死に野球に打ち込んだ。
背伸びして君と約束した高校に入った。
その年に甲子園に出た学校だ。
僕は高校生になった。
君は関西の強豪校に入ったらしい。
まだ約束は生きている。
反故にされていない。
そう信じて、いや、そう信じることでなんとか耐えてきた。
厳しい練習に上下関係に激しいメンバー争い。
僕は最後の夏の大会の、一つ前の大会で背番号をつけることができた。
一般入試組では「奇跡」と言われる出来事だった。
このまま夏の大会も入って甲子園に出よう。
そしたら「手でも繋ごう」そう思いながら夏を待った。
4年間待った。最初で最後の甲子園へのチャンス。
夏の大会、僕はスタンドにいた。
メンバー入り争いに敗れ、最後の夏をスタンドで過ごすことになった。
メンバー発表の日、僕は自分の名前が呼ばれなかった。
頭が真っ白になり、僕の思考は停止し、涙さえ出なかった。
帰りの電車に乗り、地元駅に着くまで恐ろしいほど冷静だったことを今でも覚えている。
帰りの自転車、誰もいない夜道。
僕の脚は勝手に中学校へと向かっていた。
30分かけて遠回りをして帰ってもいいのだ。
僕はもう体を休める必要がないのだから。
中学校に着くと僕の思考は一気に解放され、涙がとめどなく溢れた。
灯りが一つもない中学校の前で、僕は何度も「ごめん」と君の名前を添えて言った。
背番号をもらえなかったことよりも、
もう君に会う口実がないことに絶望した。
最後の夏、県大会の決勝で敗れた。
甲子園の一歩手前で、僕はスタンドでスコアボードを呆然と眺めていた。
終わってしまった。
14歳の夏から4年が経った日だった。
体育館裏でこそこそと集会を開いていた日々が甦る。
彼女はインターハイに出たらしい、と共通の友人の友人から聞いた。
僕は君の連絡先も学校名も知らない。
心の中で「おめでとう」そう呟く他にない。
"最後の夏"から5年、君との約束から9年。
僕はいまだに君から、18歳の夏から逃れられない。