A・クルコフ「ペンギンの憂鬱」を読んで
2021年2月13日23時8分頃、つまり昨夜遅くだ、東北地方を最大震度6強の地震が襲った。東京に住む私の震度は4だそうだ。10年前の東日本大震災のときも同じ震度だった。私は46型のテレビが倒れないよう、10年ぶりにテレビを押さえ、足元に揺れを感じ続けた。
p94(新潮社初版でのページ)
この小さな世界はあまりにも脆くて、何かあっても、とてもじゃないが守りきれないように思う。(略)ただ俺たちの世界自体があまりに壊れやすいせいなんだ。
漠然とした不安を抱いて、芥川龍之介は自死した。コロナウイルスが人々の命を奪い、それよりもっと多くの人たちに覆いかぶさっている。そして今度の地震だ。イヤでも10年前の大惨事を思い浮かべるよりも、これから数日のうちにもっと災厄をもたらす地震が起こるのではないか、とはっきりした不安にとらわれる。
p115
並木道には、100メートルおきに街灯が円錐形に光を放っているが、ぽつんぽつんと街灯が立っていても、闇はかえって濃く見えるばかり。まるで、光に照らされた空間をぎゅっと取り巻くようにと、闇がだれかにそそのかされているみたいだ。
この本を読み始めてすぐ「久しぶり!」と狂喜した。本の一文字一文字を読み進めるのに喜びを覚え、しかしいつか読み終わってしまうことに前もってすでに哀しみを抱く、けれど目で先を追わずにいられない、そんな身もだえするような感覚。レイナルド・アレナス「夜明け前のセレスティーノ」は何年前に読んだろう?20年か、15年か、とにかくずっと呼び覚まされなかった感覚だ。
p22
無口で、よく物思いにふけっていた。オーリャが何の理由も言わずに出ていってしまってから、何が変わっただろうか。今、隣にいるのはペンギンのミーシャ。無口だけれど、物思いにふけっているんだろうか。物思いって何だろう。目の表情を描写するためだけにある言葉なんじゃなかろうか。ヴィクトルは前屈みになってペンギンの目を探しあて、じっと見つめて、物思いにふけっている気配があるかどうか探ろうとしたが、あるのは哀しみだけだった。
私もこの主人公ヴィクトルと同じだ。愛する人が私のもとを去り、それからずっと一人で家に閉じこもり小説を書いては誰からも評価されず、それでも文字を紡いできた。ヴィクトルはペンギン、私は猫を迎えた。憂鬱症のペンギン!私の猫は憂鬱ではなかったが、私の膝によく顔をこすりつけてきた。物思いってなんだろう?これ、すごくわかる。描写が難しいという意味ではなく、思考そのものが小説になるのだ。小説についてずっと考え続けていると道行く人を文字にして描写してみたり、自らの心境をどの言葉を選択したら人に伝えられるのだろうとか、穏やかに日差しはさしているのにと今自分の部屋の窓から外をみて描写を試みようとしたとき「それじゃ陳腐だ!」と小説家たる私が茶々をいれる。この本の作者のように
p230
朝方、空はうっすらと雲におおわれていたが、11時になるころにはこの霞のような雲は姿を消し、春の空は、青くよく晴れわたった。
こう書かなければ、と叱咤された気持ちになる。先月の1月末に介護福祉士の資格試験があり、受験した私はもう去年の12月には頭が「介護」になっていた。道行く人が少しでも歩き方がふらついていれば「跛行って何だっけ?パーキンソン症状をもたらすのはレビー小体型認知症だったよな…」と連想が止まらなくなる。だからこそ、なのかもしれないが主人公はペンギンを迎え、知り合いからその娘をたくされ、友人の妹と同棲し、訳者沼野恭子氏によれば「疑似家族」を形成するのだが、ヴィクトルは彼女らに「愛着がない」としばしば述べる。訳者はその状態を旧ソ連の共和国制度になぞらえていたが私にとってそこに対する共感はもっと個人的だ。皮膚感覚といってもいい。孤独なんて無責任であり得ないのに悦に浸るために使う言葉を用いたくはないが、どこか他人と自分を切り離している感じーーもちろん介護の仕事で人とは接するのだが、愛想よく振る舞いもするのだが、「愛着がない」のだ。愛するために必要なエネルギーを割くのが面倒なのか、他人から心にダメージを負いたくない防衛なのか、もともとの性質にようやく気付きそのように行動できるようにしたたかになったのか、やっぱり分からない。
p186
「つらい生のほうが楽な死よりましだ」と、いつだったか手帳に書いたことがあり、その後長らくこの文章を自慢げに、ぴたりとあてはまるときも、場違いなときも、口にしてきたものだ。その後、どういうわけか忘れてしまっていたのに、何年も経った今になって、心を揺さぶられる老人の言葉につられて、記憶の中からよみがえってきた。二人の人間、異なる年齢、異なる人生観……。
そういえば、最近読んだR・ブローディガン「西瓜糖の日々」といい、死生観がこの作品でも随所に出てくる……というよりむしろ、ヴィクトルの仕事自体がまだ死んでいない人の死亡記事を書くことなのだから、全編死が覆う作品なのだ。今翻って言わなければならないほど、少女ソーニャが生き生きと無邪気に生を謳歌している。
p204
「ヴィクトルおじさん!」朝バルコニーのドアのそばで、ソーニャが嬉しそうな声をあげた。
「つららが、ないてるよ!」
また雪どけがやってきたのだ。そろそろ雪が融けてもいいころではあるーー三月初めなのだから。
この表現も上手いよなぁw つららが鳴くって雪国の人でないとわからないだろう、と雪国に住まない私が言ってみるw それにしても、こんなに寒いのに少女が好きなのはアイスクリームなのだ。寒いなか冷たいものを食べまくるのはやはり子供らしいのか、それとも暖房がよく効いて冷たいものが食べたくなるのか。そういえばヴィクトルは起きている間中、何かと言えば酒を飲んでいる。
p109
セルゲイは、(略)そこからシャンペンのボトルを二本取ってきてよこしたが、栓は赤ん坊のゴム製おしゃぶりだった。
(略)
「あのさ」セルゲイが続けた。「肉屋の知りあいがいて、いつもこう言ってた。『これまでより悪くならないよう祈って飲もう。もう一番いいことはあったんだから』って」
この時は新年をすぐそこに控えた大みそかあたりだったから仕方ないのかもしれないが、最後まで酒を飲みながら何かをしている。これも寒い国ならではなのかもしれない。ウクライナはもうちょっと温暖ではないかとも思ったし、この作品が10月の秋口から翌年5月9日までの期間を描いているので夏はお酒を飲まないのかも……いや、そんなことはないかw
ちなみに私はといえば、一昨年あたりからハマっているジェイソンウインターズティーという怪しいお茶に「そば茶」とマコモ茶をブレンドした飲み物を好んで飲んでいる。温めて飲むと、ほっとしてお酒よりも数段美味しく感じるのだ。
ここでタバコを一服。ぼーっと窓の外を眺める。太陽は明るく、その眩しさで眼下にみえる住宅の屋根や建物の屋上の一部が輝いている。春の霞のような、うっすらと膜がかかったような景色を壊そうとしているようだ。
p108
「ここはとても静かだ」ヴィクトルが夢見るように言った。「こんな静かな中でものが書けたらなあ……」
(略)
「邪魔しているのは生活だな」ヴィクトルはしばらく口をつぐんだ後で、そう言った。
結局ヴィクトルはこの作品のなかで、小説は書かない。死亡記事を慣れた手つきで著すばかりだ。「西瓜糖の日々」では最後に全編が語り手によって書かれたものだとわかる。ただもしかしたら、ヴィクトルが実際「書いていた」のかもしれない、とも思う。実際の小説家クルコフではなく作品の主人公ヴィクトルが小説を書いている感覚で記したのではないか。頭のなかをヴィクトルが占めていたのであれば、納得である。私には、わかる。
p257
未来なんて、前向きに突き進んでこそ手に入れられるもの。立ち止まって謎を解こうとしたり、人生の本質が変わったからといっていちいち考えこんだりしてはいられない。人生は道のようなもの。問題や困難を避けて「わき道」を進むなら、道は長くなる。道が長ければ、人生も長くなる。まさに結果よりもプロセスが大事なのだ。なぜなら、人生の最終的な結果というのはいつだって決まっている。「死」なのだから。
気になった文章の引用は、これが最後。村上春樹は「ノルウェイの森」で(そういえばこの作品も読むのが惜しいが読まずにいられない、と前のめりになって読み進めた作品だった。若い時分の話だが)、生は死に内包するだのしないだの、とわざわざ太字で読者に提示してみせたけれど、クルコフだかヴィクトルだかはそんな頭の悪いことはしない。しまった村上春樹をディスってしまった!訳者沼野恭子(ロシア文学者沼野充義の伴侶だった!)や親友が指摘してくれたように、村上春樹チックな文体を随所に感じていたのに!
いつか親友のことや、生と死については触れることもあるだろう。私は「わき道」歓迎派……というか「それこそが人生」と許容する考えなので不安とともに生きることにためらいはない。起こる出来事に後悔のないよう対応するだけだ。ここまで読んでくだされば分かると思うが、本が与えてくれる気づきは、しばしば読者の人生とリンクしている。大災害や大災厄が起こっても、それを心にしっかり刻み、前へ進むことだ。プロセスが大事なのだ。
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