必死に走りつづけて、たどり着く場所。20230203fri222
799文字・25min
昼すぎ。
noteにあった記事でレイティングのことを読み、それをぼんやりと考えながらロードバイクで散歩をした。
表現のレイティングといえばR指定だ。
今回の松竹のゲーム小説「TapNovel」は国民的アニメを求めている。
第二の「サザエさん」発掘プロジェクトと言っていい。
話は逸れる。
三谷幸喜が駆けだしの頃、サザエさんの脚本の仕事がきた。
タイトルは「タラちゃん、金メダルを取る」。
タラちゃんは突然、重量挙げに目覚めて二十年後にムキムキになってオリンピックの表彰台にのぼる。
どこのR指定にもかからない。が、ボツだった気がする。
放送されたらサザエさんの歴史が変わる「事件」だったろうが。
三谷幸喜もぼくもそれとこの記事を読むすべての表現者に言えることだが、どんなに守れと言われた制約(規約、要項、描写、倫理など)があろうとも、曲げられない作家性がある。
ぼくは表現はとことんしたい。例えば腕や首の断面図まで描写したい。
今回あるいは《派遣王女☆ウルスラ》を書いて気づいた。
本来の自分の表現を「規格」に押し(閉じ)こめようとすると、表現エネルギーが歪んで《ウルスラ的ギャグに収斂される》ことだった。
ぼくと同様に三谷幸喜は「フツーのサザエさん」が書けなかった。
三谷幸喜だったら、サザエさんの黒電話のボタンの数(本来なら9個)にカツオは
「お姉さ〜ん、なんでうちの電話のボタン(穴)は6個なの」
とツッコんでしまうだろう。
それが三谷幸喜の作家性だ。
それを個性という読者がいるが、それは個性ではない。
癖だ。
ロリコンや被・加虐趣味は治らないのとおなじで人間の欠落部分だ。
となると、ぼくは主戦場は純文学になるのかもしれない。
だが、すべての夢が叶う人間などいない。
黒澤明監督はもともと画家志望だった。
必死に走りつづけて、たどり着く場所に収まる。
この歳でマンガの原案を書いてようやく、そんな考えに至るようになった。