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『極論』を追求する方が面白い?
極論って、人間の思考のスリルだとわたしは思うんです。
「世界はこうだ!」と断言するあの気持ちよさ、脳内を駆け巡る感覚は、甘美な麻薬にも似ています。そして同時に、その裏でちらつく「でも本当にそうなの?」という理性の突っ込み。わたしたちはこの矛盾の境界線上で、知的なお漏らしをしてしまう生き物なのだと思います。
たとえばこんな極論。
愛とは化学反応の副産物であり、持続可能な幻想にすぎない。
「お前はなにを言っているんだ」、と思うでしょう? でも、ストレスが脳内のオキシトシン生成を促して「わたしの彼、最高!」と脳を勝手に洗脳しているかもしれないと知ったら、少し信じたくなりませんか?それでも抵抗する人間のロマンティックな部分をわたしは愛しているのです。ああ、この湿度がたまらない。
わたしたちは、極論を純粋な真実として消化するためではなく、むしろそれが真実である「フリ」を楽しむために追いかけるのでしょう。極論は、知性のエンターテイメントであり、思考のアクション映画。そして、わたしはその映画の主人公としてハチャメチャなストーリーを構築する変態的脚本家です。でも、安心してください。これは単なる趣味、プロじゃないんで。
ここで言う「極論」は、もちろん深夜に酔った勢いで繰り出す無責任なヤツだけではありません。むしろ、しっとりねっとりした論理と感情が絡み合った、知的な濡れ場です。数学的な証明の厳密さにBLのエロシーン並みの熱量を注ぎ込む感じ。いや、例えがアレすぎてすみません。でもそういうことなんです。本気で追求すればするほど実はバカバカしくて、でもその「バカバカしさ」こそ私たちの生きる動機になる。
では、極論を追求する心理を深掘りしてみましょう。
なぜ、人間は「極端」に惹かれるのか。たぶんそれは、不完全な世界に生きる私たちが、シンプルな「答え」を求めているからです。世界は複雑で、カオスで、湿った泥沼のような曖昧さで満ちている。でも極論は、そうした曖昧さを一刀両断にして、わたしたちを「わかった気分」にさせてくれるのです。このわかった気分、言うなれば、脳内快楽物質の大洪水です。知性を維持するための知的おむつが必要なほどに。
例として、ビジネスの話をしましょう。会社の会議で聞きそうなこのセリフ。「AIでぜんぶ解決しちゃいましょう!」極論ですね?
でも、現場はそんなに甘くないのです。AIは確かにすごい、でもそれが生むのは結局、人間の意思決定を補助するための膨大なデータ。そのデータを捌ききれるかは、結局人間の能力次第です。
でも、極論的発言をする人の声が一番会議室を支配するのは事実。なぜなら、極論は簡潔でわかりやすいから。そして、わたしはその発言の裏にある「焦り」や「期待」を読んでしまう。極論は、ある種の自己防衛です。「これでいける!」と思いたい、そう思わせたい切実さの表れなのです。
さて、わたしは極論に固執しているように見えますが、実はそれが社会的にどれほど危ういものかも知っています。極論は人を焚き付け、暴走させることもあります。
歴史をひっくり返せば、戦争だって独裁だって、極論から生まれてきたのです。でもね、不思議なのは、そんなリスク込みで、わたしたちは極論をやめられないということ。たぶん、そこには動物的本能が関わっているのです。つまり、極論は知的な猛毒であり、同時にわたしたちを進化させるカギでもあるのです。
ここでひとつ、昆虫に目を向けてみましょうか。
みなさんは「ハエトリグモ」をご存じですか?この小さいクモ、実はめっちゃ頭がいいんです。そして、狩りをするときの判断基準は「最短ルートを選ぶ」という極論的なシンプルさ。でもその裏には、膨大な試行錯誤を要する複雑な過程が隠れているんですよね。この「表面的には単純、内部は複雑」という構造が、わたしにはとても人間っぽく思えるのです。
極論は、わたしたちの、「わからないことに耐えられない」という脳のSOS信号でもあります。そして、それに素直に耳を傾けるのもまた、人間の愛おしいところです。正直、極論が正しいかどうかなんてどうでもいいのです。
重要なのは、それがわたしたちの知的エクスタシーを生み出し、対話を刺激し、新しい視点を生むこと。だからこそ、「極論を追求する方が面白い」と断言したい。そしてその後で、「でもそうとも限らないよね」と、ニヒルに微笑むわたしがいるのです。
最後に謝罪を。
読者さまをここまで濡れた文章で巻き込んでしまったこと、これは完全にわたしの責任です。湿度120%のこのエッセイに胃もたれを感じたなら、どうぞ紅茶でもお飲みください。そして、わたしという変態がこれ以上暴走しないよう祈ってください。でもきっと、わたしはまた書きます。知性の泥沼に、全身ずぶ濡れになりながら。それがわたしの生き方だからです。