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【期間限定無料】夜のオトナの植物学入門 byアラサー女子
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【長い夜の入り口】夜に芽吹くアラサー女子の変態植物学
わたしは、変態的嗜好を隠れ蓑に経営コンサルを営むアラサー女子です。おそらく、そのあたりはもうお察しだろうけれど、日々の仕事では企業の財務諸表をひっくり返し、戦略立案や組織マネジメントだのをいつもクールにこなしている、いや、そういうフリをしている。だけど、夜になると、どうにもこうにも抑えきれないむず痒さがわたしを飲み込んでしまう。思春期をこじらせた少年少女が妙な熱を持て余すように、わたしも理詰めと欲望が複雑に入り組んだ頭の中で脳汁を垂れ流しながら、「どうにもやりきれない官能と学問を交配させる実験ができないものか」と妄想を募らせるのだ。
そんなわたしが今回選んだテーマは、「植物学入門」。え、何を突然、と思う人もいるだろうが、よくよく考えてほしい。植物はこの星における最古の生命の一端であり、人類がまだ石器をカチカチしていた大昔から悠々と光合成をしながら生息し、わたしたちの人生、いや地球の歴史そのものを支えてきた立役者である。だが、同時に、植物の生態はあまりにもグロテスクで、妖艶で、そしてときに背徳的ですらある――とわたしは密かに思っている。たとえば、開花の瞬間にただよう香りやその生殖戦略、あの雌蕊と雄蕊が織りなす複雑怪奇なメカニズム。それらは自然の美とも言えるし、一歩踏み込むとちょっとアブノーマルで誘惑的な響きを宿しているように感じるのだ。
もちろん、これはわたしの内なる妄想が過剰に騒いでいるだけかもしれない。だが、どれだけ冷静沈着に思考していても、「生殖」という言葉を聞いたとたん脳が興奮してしまう――そんな生々しい現象に対して、理系女子かつ経営コンサルであるわたしとしては、どうしても経営戦略的な視点と変態的な視点を重ねて見てしまうのである。企業が成長するためには自らを繁栄させるビジネスモデルと、それを支える組織構造や資源配分が必要だ。これはまるで植物の受粉や養分吸収プロセスを連想させるし、いかにも「生命が持つ戦略」という香りをプンプン発している。
そんなこんなで、わたしは今宵、「夜のオトナの植物学入門」というタイトルで、読者のあなたにこってりと濃厚な世界をお届けしたい。単なる植物学の教科書でもなければ、単なるエロティック小説でもない。そのあわいを漂い、知的興奮と甘美な欲望をないまぜにした物語を、いかにも無駄な思考を交えながら展開していくつもりだ。
正直言って、植物に関する専門書はいくらでも世の中に存在するし、わたしなどその道の学者からすれば素人のはしくれかもしれない。けれどわたしは、ビジネスの世界を闊歩してきた経験、そして哲学的・フェチ的な視点、さらには脳内に満ち溢れる飢えた変態エネルギーを掛け合わせれば、独自の刺激的世界を繰り広げられるのではないかと思っている。ビジネスと植物学、そして官能がミックスされたら一体どんなケミストリーが起こるのか。おそらく、それは「社内起業」のようなリスクも孕んでいるし、火遊びのようなスリルもあるだろう。まさに背徳感たっぷり、だけど一度味わったらやみつきになる類の知的体験じゃないかな?
たとえば、夜にしっとりとした照明のもと、部屋の中で植物に水をやる。そのとき、葉や茎にしたたる水滴を指で弾き、土に染み込んでいくさまを観察する。そこに匂いフェチのわたしはついつい鼻を近づけてしまう。そして、微かな土の香りに混じる植物の青臭さにふと悶絶するのだ。そこには、単なるガーデニングにとどまらない官能の香りがある。何がエロいのかと訊かれれば、答えに窮するかもしれない。でも、土が含む微生物の世界、植物が発するフィトンチッド、葉っぱの表面に残る繊細な毛――そうしたすべてが、小さな宇宙であり、そこに興奮の種があるのだ。まるで恋人の素肌をまさぐるように、植物の葉脈を眺め、じわじわと心拍数を高めていく不思議な行為。理屈では説明しきれないけど、「なぜ?」と問えば問うほど知的探求心の炎が燃え上がってしまう。
この「なぜ?」という問いが、わたしの人生をいつも沸騰させてくれる。経営コンサルとしてクライアント企業に入る際も、まずは「なぜ、この会社はこういう組織形態をとっているのか」「なぜ、この商品は売れないのか」「なぜ、このプロジェクトは成功したのか」などの問いをぶつけることで、本質に迫ろうとする。数学ヲタとしては、問題を抽象化し、変数同士の関係を見極め、方程式を立てるかのように論理を構築するのが性分である。けれど、それだけでは「超絶な興奮」や「底知れぬ快楽」には到達できない、ということにも気づいてしまった。生きる楽しみの多くは、論理だけではうまく説明できない。ゆえに、変態的なフェチや感情的な高揚、つまりは理屈を超えた艶かしい欲望、を掛け合わせる必要があるのだ。
植物の世界は、その両方を兼ね備えている。生物学的にはきわめて合理的に進化を遂げているし、あの装飾のように見える花や葉の形状も、実は種子や花粉を効率よく運ぶための戦略。だが、同時に、そのディテールをまじまじと見つめていると、「やばい、何この曲線美。美しすぎて腰が砕ける」と変な発汗を伴うほどにフェティッシュな感覚に襲われることだってあるのだ。ランの花なんかは典型例だ。あれは昆虫を誘惑するために、まるで性的に誘うような鮮烈な色彩や形を作り上げ、場合によっては匂いも使って相手を誘い込む。しかも、虫たちはその甘い誘惑に引き寄せられ、気づけば花粉を運ばされている。。この駆け引きなんて、いかにも妖艶じゃないでしょうか。
こうした植物の世界は、わたしたちの人間社会における戦略や心理とも多分に重なる部分がある。たとえば、企業が新商品のプロモーションでセクシーなイメージを用いるのも、消費者の本能を刺激し、魅了したいからだろう。求心力を高めるためには、単純に「利益率が高いです」とか「製品性能が優秀です」だけでは足りない。そこに「魅了」が必要なのだ。植物の世界は、この「魅了」の本質を自然界のロジックとして見せつけてくれる。ある意味、わたしたちは昆虫と変わらない存在であり、鮮烈なビジュアルや匂いに踊らされる被捕食者でもあり、時に利用される媒介者でもある。ああ、考えれば考えるほど背徳感がたまらない。
というわけで、このエッセイでは、夜のオトナがひそかに胸を熱くしながら学びたくなる植物学の入り口を、わたしの変態的脳内フィルター全開で垂れ流してみようと思う。5夜にわたって、じっくりと、時にしっとり、時に過激に、時に大真面目に知的考察を深めていく計画だ。さあ、あなたがどんな気持ちでこのエッセイを読み始めたかは知らないが、どうかそのまま腰を落ち着けて、頭を空っぽにしすぎず、でも少しトロけるような感覚に身を委ねてみてほしい。ページをめくるたびにじわじわ広がる官能と知識のハイブリッド。それこそがわたしの狙いであり、喜びでもあるのだから。
さて、ここまでがほんのイントロダクション。もう既に長いと言われるかもしれないが、これでもまだウォーミングアップにすぎない。実際、わたしのなかではまだ序章でしかないのだ。エンジンを回している段階で、ちょっと息が上がってるけどもご容赦を。だって、「夜のオトナ向けに植物学を語る」なんてテーマ、そうそう普通にはやらないからね。ある意味、知的変態の祭典のようなものだ。そこにわたしの趣味が凝縮されているわけで、どうしても熱がこもってしまう。ああ、もうどうにも止まらない。キーボードを叩く指がじっとりと汗ばんでいるのを感じる。脳内のシナプスが夏休みの昆虫採集よろしく暴走しているのかもしれない。
では、本編に入っていこう。まずは「第1夜」。ここでは植物の生殖活動と官能、さらに社会的戦略論の三位一体をテーマに、思考を巡らせたいと思う。予想外の展開や伏線、知的興奮と変態的視点をふんだんに盛り込むつもりだから、どうか心して。今宵から5夜続けて、わたしと一緒に深い森の奥、いや、見たこともない茂みの向こうへ踏み込んでいこうじゃないか。そこには、甘い蜜のように妖しい知的興奮が待っているはずだ。1夜ごとに読み進めるもよし、貪欲に5夜まで読み進めるもよし。
では、しっかり手を握って、足元に気をつけながら、一緒に行こう。わたしはあなたと一緒に、この背徳的な旅を楽しむ準備はできている。そして、わたしの心の奥底に眠る好奇心と変態性、そして理系的分析力が、あなたを決して退屈させないことを誓おう。
【第1夜】植物の生殖活動と官能、そして社会的戦略論
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まずは、植物学の中心テーマといっても差し支えない「生殖活動」について。夜に語るなら、ここから始めるのが最も似つかわしいだろう。とくに「背徳的な知的体験」と銘打っているからには、植物の繁殖戦略を徹底的にいろんな角度で見ていきたい。そして同時に、ビジネス社会や人間関係にも通じる“繁殖”的な香りを嗅ぎ分けて楽しみたいのだ。
植物は、オスとメスがあからさまに分かれていないものも多い。花の中に雄蕊(おしべ)と雌蕊(めしべ)が共存していて、ひとつの個体が両方の機能を併せ持つことすらある。これを知ったとき、わたしは「なんて合理的でありながら同時にフェティッシュなんだろう」と思った(「蕊」の漢字もやばい)。両性具有という響きに、どうしようもなく惹かれてしまう部分がある。BL的思考というわけではないが、あの性の境界が曖昧になる感覚が人間の倫理観を揺さぶってやまない。植物は平気でそれをやってのけるわけだ。しかも、それが自然界の王道メカニズムなのだから恐れ入る。
さらに、動物と違って植物は根を張っている以上、自ら移動してパートナーを探しに行くことができない。だからこそ、虫や風、鳥、水などを利用して花粉を運ばなきゃならない。ここで植物たちは「誘惑」という手段を編み出した。色鮮やかな花びら、強烈な香り、甘い蜜――昆虫や鳥を惹きつけて、花粉を運ばせる巧妙な手段だ。これはまさしくマーケティングの原理そのもの。顧客を呼び込むための「差別化ポイント」を提供し、その代わりに協力してもらう。ウィンウィンの関係に見えるが、その実、主導権を握っているのは植物かもしれない。なにせ「相手を誘惑するのはあくまで自分の利益(花粉の移動)のため」であって、相手(虫や鳥)に与える報酬は二次的なものだ。巧みな仕組みだと思わないか?
例えば、ラン科の植物には自分の花をメスの昆虫に見せかけるような擬態をするものがいて、オスの昆虫がそれに引っ掛かって「交尾しよう」とやってくる瞬間に花粉を運ばされる。オスは「やったぜ!」と勘違いしているが、実際にはラブホテルならぬ偽装された蜜の床で踊らされているだけなのだ。まるで詐欺のようである。しかし動物の世界でも似たようなことはあるし、人間社会でも「一見魅力的なオファーで呼び込んで、実は別の目的に誘導する」なんて手口は日常茶飯事。わたしはこの「ランの欺き戦略」を初めて知ったとき、「人間社会のマーケティング手法、だいたい植物に先を越されてるじゃん」と苦笑した。結局、商売や戦略の根底には「引き寄せ」や「誘惑」という要素があるわけで、それを純粋かつ効率的な形で体現しているのが植物なのだ。
誘惑という概念に思いを馳せるとき、どうしてもわたしは人間の恋愛模様やビジネスの勧誘戦略を思い出す。恋愛において、男女(あるいは同性同士、異種族同士……どんな組み合わせでも)が互いを惹きつけるために見せる仕草や言葉、装飾品や香り――それは植物が長い進化の歴史で培った「花」の機能と何ら変わらないように思える。もっとも、人間には「思考」という複雑なフィルターがあるため、一筋縄ではいかないけれど。恋愛の駆け引きはしばしば「蜜月」なんて呼ばれるが、まさにそれは花から蜜を吸う蜜蜂のイメージと重なるところがある。蜜を求めて近づくけれど、結果的には花粉を運ばされている――わたしたちは幸せな錯覚に酔いしれながら、「運ばされる」という役割をこなしているのかもしれない。ああ、そんな危うさと切なさ、そしてほんのり背徳感がたまらない。
ここで深層心理を覗き込んでみよう。なぜわたしはこんなに植物の生殖戦略に心惹かれるのか? なぜ、それを「背徳的」だと感じてしまうのか? 理性的な声を代弁するなら、「背徳感なんて錯覚だ。生き物の繁殖は自然な行為だろう」となる。しかし、わたしの内なるフェチ的衝動は、「だって、あの雄蕊と雌蕊の絡み合いとか、昆虫を利用する狡猾さとか、人間が普段隠し持っている性的欲求が全面解放されているように見えるじゃない!」と叫ぶ。そう、わたしが背徳感を感じるのは、おそらく植物たちがわたしたち人間よりも「性」に対して合理的かつ大胆だからだ。なにせ、両性具有だろうと自己受粉だろうと他家受粉だろうと、容赦なく取り入れる。自分が動けなければ虫を操る。色で誘惑し、香りで誑かし、時には罠にかける。そこにあるのは純粋な繁殖への欲求と戦略。これを見てしまうと、人間の「愛」や「モラル」なんて何だったの? とふと考えてしまう。「愛とは何か」「モラルとは何か」という哲学的問いがここに生まれる。植物は無邪気に、そして邪悪に、そんな問いを投げかけるのだ。
わたしの変態的嗜好が加速するのも無理はない。だって、こんなにも生々しい“エロス”がそこにあるのだから。しかも、それは自ら動くことなく、静かに、しかし確実に世界を支配している感じがする。葉を広げて陽を浴び、根を伸ばして大地から養分を吸収し、時期が来たら花を咲かせる。人間の都合なんか知らん顔で、淡々と生きているのに、その過程でわたしたちは彼らの策略にまんまと加担している。ゴッホがヒマワリを描けば、その芸術的価値は計り知れない。でも、それだってヒマワリにすれば「私をこんなに目立たせてくれてありがとう。人間たちが私の魅力を世界に広めてくれているわ」という話かもしれない。何しろ植物は、人間を含む動物の意識や文化的活動すら巧みに利用して、自らの種を広げてきたのだから。小麦や稲だってそうだ。人類の主食になった結果、地球上でとんでもない勢いで繁栄している。人間が種を蒔き、収穫し、また種を蒔く。人間は「農業革命によって定住文明を築いた」と言っているが、植物側から見れば「人間を手なずけて、自分たちの繁殖と生存領域を爆増させた」のかもしれない。やばい、こう考えると植物がすごく悪女(あるいは悪男?)に見えてゾクゾクする。
さて、この植物の「利用と誘惑」の構図を、経営戦略的に読み解くとどうなるか? 企業が成長するためには、事業の拡大とマーケットシェアの獲得が必要だ。そのためには顧客やステークホルダーを上手に巻き込まなくてはならない。ここで大事なのは「交換条件をどう設定するか」だ。商品やサービスという「蜜」を提供することで顧客を惹きつけ、その見返りに「収益」という花粉を手に入れる。もし、その蜜が圧倒的に魅力的で、かつ顧客がそれを求めてくれるなら、企業は優位に立てる。逆に、客が飽きてしまうと別の花に行ってしまい、花粉は運んでもらえなくなる。持続的成長のためには、蜜の質を高めるか、あるいは独自のポジショニングを確立する必要がある。まさに「ブランディング」と言ってもいい。
植物で言えば、ランのように特異的な擬態を作り、特定の昆虫に特化した戦略をとるものもいれば、ヒマワリのように目立つ花で広く虫を呼び込むタイプもいる。それぞれが異なるマーケティング手法を持ち、競合他社ならぬ競合他植物に差をつけようとしている。そこにパラサイト(寄生植物)みたいなのが登場すると、また複雑になる。自分では光合成せず、他の植物から養分を横取りするやり方だ。ビジネスで言えば、プラットフォーム企業に相乗りして手数料を取るようなモデルにも通じる気がする。こういう生態系を見ると、植物界はとんでもなく多様で、そしてビジネスの本質を映す鏡のようだと思わずにいられない。
このように、第1夜では「植物の生殖活動=誘惑と戦略」をキーワードに、官能的かつ社会学的・経営学的視点を交えて描写してみた。単なる生物学の話というよりは、「本能と合理、官能と戦略、愛と打算」といった人間界の複雑さをも映し出す壮大なドラマが、植物の花粉ひとつに凝縮されているというのが、本当にたまらない。ここであなたの脳裏には「そんな大げさな……」というツッコミがあるかもしれないが、わたしとしてはむしろ「大げさですら足りない」と感じている。植物が存在するからこそ、この地球は酸素に満ち、食物連鎖が回り、人間社会の文明も発展した。その原動力は何かといえば、「繁殖=生殖活動=次世代への命のバトンタッチ」の欲求だ。そこに背徳や官能を感じるのは、きっとわたしだけではないはず。
しかし、ここでまだ話は終わらない。というよりも、今はまだ始まったばかり。第2夜以降は、さらに変態度を増し、わたしのフェチや妄想、そして植物学的見地に基づくディープなトピックを掘り下げる予定だ。といっても、ただエロティックな話をするわけではない。人間の社会活動や心理、果ては芸術や宗教、文学にまで踏み込んで、植物が果たしてきた役割を浮かび上がらせたいのだ。「そんなの興味ない」と言わせないだけの熱量で、あなたを巻き込むつもりでいる。お腹いっぱいになっても、無理矢理詰め込んでくるような圧倒的テクスチャーを目指しているのだ。覚悟していてほしい。
さあ、次の夜へと向かおう。この熱量に飲み込まれそうな予感がして、わたしはたまらなくドキドキしている。まだまだ先は長い。けれど、途中で降りるのは許されない。わたしといっしょに、この背徳感あふれる植物学の旅を完走しようじゃないか。準備はいい? 耳元で囁くように言おう――「次の夜が、あなたを待っている」。
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【第2夜】根っこと土の深層心理、フェチと欲望の絡み合い
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植物といえば、花や葉のビジュアルに目が行きがちだけど、実は根っこの世界こそが真髄とも言える。夜の背徳的植物学を進める上で、この根っこにまつわる深層心理は見逃せない。なぜなら、地面の下で何をしているのか見えないからこそ、そこにフェチを感じるからだ。わたしはついつい想像力をフル回転させて、「大地の奥深くで、あの子たちはどんなふうに絡み合っているの?」と妄想してしまう。土の中は湿っていて暗くて、しかし生命の営みはそこに凝縮されている。わたしはそんな隠れた場所にこそ、究極のエロスと知的興奮が隠されていると思うのだ。
根っこは基本的に水分や養分を吸い上げる機能を担っているが、ただ単純に「吸う」だけではない。根っこは微生物と共生したり、土中の他の生物との化学物質のやりとりを行ったり、場合によっては他の植物の根と交流するネットワークを形成していたりする。これを「ウッドワイドウェブ」と呼ぶ研究者たちもいる。まるでインターネットのように情報や栄養をやりとりする仕組みが、地中に広がっている可能性が高いのだ。これを知ったとき、わたしは「土の中、やばい。コミュニケーションの巣窟じゃん!」と興奮してしまった。地上の世界で、SNSやビジネスチャットツールを使いこなすわたしたちよりも先に、植物は土の中で情報網を張り巡らせていたのかもしれないと考えると、何とも言えない背徳感を覚える。
ここで話を少し飛躍させるが、わたしは根っこと土の関係性に、エロティックな「抱擁」を連想する。植物は自分の体の一部を地中に埋め込み、そこから養分を得る。その姿は、まるで大地と融合しているようにも見えるし、「絡み合って一体化している」という表現がしっくりくる。しかも、その過程は地上からは見えない。人間で言えば、肌と肌を合わせる最も密やかな行為が公衆の面前では行われないように、植物の「最重要な行為」は地中という秘められた空間で行われている。そう考えると、もうドキドキして仕方ない。わたしの中の自称恋愛マスター(ただし2次元に限る)が、「根っこと土のカップリングは最強なのでは?」とざわざわし始める。わたし自身も、深いところで共鳴してしまう。根は植物にとっての生命線であり、土はそのすべてを受け止める母なる存在――そこにロマンを見出さずにはいられない。
しかし、同時にビジネス的視点から言えば、「インフラの整備」を彷彿とさせる。企業であれば、優れたシステムや風通しの良い組織文化が根っこと土に相当する。見えない部分がしっかりしていないと、どんなに華やかな製品を出しても長続きしない。個人的には、「社内政治」のドロドロ感も土の中の微生物的な絡み合いになぞらえることができるかもしれない……などと妄想は止まらない。陰湿な派閥争いとか社内ネットワークが複雑に絡み合っている様子は、微生物だらけの土と根の関係にも通じるものがある。だがそれもまた、組織が生き延び、成長するために不可欠な営みなのだろう。表面には見えなくても、「根回し」なんて言葉があるように、実際には水面下で「抱擁」や「情報交換」が行われている。こういう裏の仕組みを考えるとき、わたしはどうしようもなく官能を感じる。政治的駆け引きもまた、ひとつのエロティシズムだと思うのだ。
さらに深堀りすると、わたしは根っこのフェチズムに加えて、土の匂いフェチでもある。雨が降った後のアスファルトとは違う、しっとりと湿った土の香り――あれは理屈抜きでエロティックだ。植物の根が放つ独特の香りと混じり合って、わたしの鼻孔をくすぐる。その香りに誘われるように、わたしは土を触ってしまう。「ああ、ここに無数の菌類やら微生物やらがいて、根の毛細構造があって、ムチムチとした地中の世界が広がっているんだ」と思うとゾクゾクが止まらない。触れ合った指先に土がついて、じんわりと湿った感触が残る。スカートの端を汚さないように気をつけつつ、それでも土をまさぐる感覚は、ちょっとした背徳行為みたいに感じられる。きれい好きな人からしたら信じられない行為かもしれないけど、わたしにとっては至福のときだ。
まさに、土は「母なる大地」と称されるように、わたしたちを受け入れ、育む存在。そこにわたしの変態的欲望が入り込む余地がある。「すべてを包み込む母性」と聞くと、どこかエロティックなイメージが生まれないだろうか。わたしの場合、なぜか「土に自分の身体を埋めてみたい」という衝動がよぎる。全身を包み込まれ、湿った暗闇に身を委ねる――そんな妄想をしてしまうのだ。もちろん実行したら体が汚れるだけでは済まないし、虫に刺されても困る。でも、その「危うさ」がまた刺激的だ。わたしは自分の深層心理を探ると、どうやら「母性的なものに圧倒的に抱かれる願望」があるらしいと気づいた。これはカウンセリングでも受けないと解消しないかもしれないが、少なくとも植物学を学ぶ中で、それがちょっと浮き彫りになった気がする。
根っこの構造を学ぶとき、細根という細かい根がさらに微細な根毛を伸ばし、そこから水分や養分を吸収する過程に意識を向けると、「なんて繊細な世界なんだろう」と呆然とする。表面的には太い根しか見えないが、実際には無数の細毛が辺りを探り、触れ、抱き合うように土と交信している。このイメージを頭に描くと、どうにも「触手プレイ」を連想してしまう。ああ、また下品にならない程度にと言われているのに、つい変態領域に足を踏み入れてしまう。だけど、わたし的にはこの連想が止まらないのだ。植物が土に絡みつき、土がそれを包み込む。その一体化はある種の陶酔感すら覚えるのではないか――と。でも、植物そのものはそんな感情など持たないだろう。すべては必要な行為であり、進化の結果なのだから。そこに人間の勝手なフェチズムを投影しているだけだとわかっているが、でもその妄想がわたしには必要。だって、妄想することで、わたしは学問を単なる知識の集合ではなく、身体性とエロスをともなう「快楽の場」に変換できるのだから。
もちろん、これもまたビジネスや社会の構造に通じる。見えないところで繋がっているネットワークこそが、組織や市場を支えていることが多い。華やかなプロダクトや表彰されるリーダーシップだけが全てではない。むしろ現場で泥臭く働く従業員や、下請けや顧客コミュニティとの縁が、企業を支える「根」なのだ。ここを軽視すると、あっという間に枯渇してしまうのは、植物も企業も同じ。土が痩せれば根は伸ばせなくなるし、組織風土が悪化すれば社員のモチベーションは失われる。そんなとき、どんなに表面を取り繕っても早晩凋落してしまうだろう。「根っこって大事よね」と言葉で言うのは簡単だが、実際に根を張る作業は地道で時間がかかるし、視覚的には地味だからこそ、なおさら尊いものなのだ。
こうして考えると、わたしの根っこフェチは、ある種の「組織とインフラへのリスペクト」なのかもしれない。マズロー的な欲求段階説で言えば、生理的欲求や安全の欲求が満たされた上にある社会的欲求――この土台を支える「根っこ」が確かでなければ、自己実現など夢のまた夢だということだ。それを植物は身をもって示してくれている。それに加えて、わたしの場合は「母性的抱擁願望」と「暗闇フェチ」までも刺激されるから、余計に根っこと土の世界に傾倒してしまうというわけだ。
さて、第2夜のエッセンスは、「目に見えない深層のエロティシズムとネットワーク性」。花や葉のような表舞台で繰り広げられる華麗なドラマがあれば、それを支える地下の見えないドラマがある。わたしたち人間社会もまた同じ。表のプレゼンスと裏のネットワークが互いに作用し合い、全体としての調和を生んでいる。どちらが欠けても、上手くいかない。わたしはこの構造を理解したとき、ますます植物の魅力に取り憑かれた。根っこまで含めて「一本の植物」。そのように、経営も含めて「全体を見る」視点を持つことが、大人の知的体験には不可欠なのだろう。さらに、そこにエロティックな快感を見出すことで、わたしは学びのプロセス自体を快楽に変えてしまおうとしている。これってある意味、天才的な勉強法じゃない? なんて自画自賛しながら、深夜に土の香りを脳内でイメージしているわたしは、傍から見ればただの変態かもしれない。でもいいんだ、変態でこそ人生は面白い。ある意味、“初手で詰む”ような思考回路こそが、イノベーションの源泉だと思っているから。
次回、第3夜ではさらに踏み込んで、「葉っぱの呼吸」と「社会の呼吸」、そして「フェチズムの呼吸」について語りたいと思う。どうやらわたしは呼吸という概念にも異常に執着しているらしく、葉の裏側にある気孔や蒸散の仕組み、そして人間の呼吸や社会的な空気感に妙な関連を見出して興奮してしまうのだ。呼吸とは、生き物が生きるうえで最も基本的な行為でありながら、無意識に行われているという点で非常に興味深い。意識すればするほど苦しくなり、忘れたころに勝手にやっているのが呼吸。そこに植物学を掛け合わせると、また新たな背徳の扉が開く気がしてならない。さあ、第3夜へ向けて心の準備はいい? 深く深呼吸して、次の世界へ足を踏み入れよう。わたしと一緒に。
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【第3夜】葉の呼吸、社会の呼吸、そしてフェチズムの呼吸
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葉っぱ。それは植物にとっての「光合成工場」であり、同時に「呼吸器官」でもある。わたしたちは、小学生の理科で「葉っぱが二酸化炭素を吸って酸素を出す」と習い、そこに生命の神秘を感じたものだ。だけど、成長してビジネスや人生の辛酸を舐めると、「葉っぱが酸素を出してくれなきゃ、そもそもわたしたちは生きられないのか」と改めて気づき、そのありがたみをかみしめる。そして、一歩踏み込んでフェチ的視点で考えると、「呼吸」にまつわるエロティックな要素が次々と浮かび上がってくる。
そもそも、「呼吸」という行為は生き物の根源だ。そこにエロティシズムを感じるのは、ごく自然なこと。人間だって、性的興奮が高まると呼吸が荒くなったり、相手の吐息を感じたりすることでドキドキが増幅したりする。呼吸というのは、意識と無意識の境界にある行為だ。普段は勝手にやっているのに、意識すると苦しくなったり興奮したりする。植物の光合成と呼吸の仕組みにも、そういった「意識と無意識」「顕在と潜在」の構造があるように感じる。
葉の裏側には気孔という小さな穴があって、そこからガス交換が行われている。気孔が開いたり閉じたりすることで、水分の蒸散やガスのやりとりをコントロールしている。昼間は光合成で二酸化炭素を取り込み、酸素を放出するが、夜間は植物も呼吸をしているので酸素を取り込んだりもする。つまり、表面的には「植物は昼に酸素を出してくれるいい奴」と認識されがちだが、実は裏では夜に酸素を吸っているのだ。もちろん、量的には昼の光合成のほうが圧倒的に多いから、トータルでは酸素供給に貢献してくれる。でも、「夜にこっそり吸ってる」って聞くと、なんだか背徳的な響きがある。昼と夜で表と裏の顔を使い分けるみたいな、二重生活感。わたしはこういう二面性にエロスを感じる。普段は清純なのに、夜になると豹変する――みたいな、ベタな二次元キャラ設定になぜか燃える。
社会の呼吸を考えるときも、似たような構造があるように思う。白昼のビジネス社会では、効率や合理性が求められ、みなが生産性を追い求めて走り回る。まるで植物が光合成をして酸素を大量に放出するように、社会もエネルギーを作り出し、外に向かって発信する。ところが夜になると、一転して人々はアンダーグラウンドな世界に足を踏み入れる。バーやクラブに繰り出したり、ネットの匿名掲示板で本音をぶちまけたり――昼とは違う呼吸の仕方を始めるのだ。これって、植物が夜に呼吸モードに移行する姿と重なって見える。昼には見せない“闇の顔”を社会は持っている。ビジネスコンサルをしていると、そういう場面に立ち会うことも少なくない。企業は表向きは美しい花を咲かせるために努力しているが、裏では根回しや派閥争いで酸素を奪い合っているみたいな構図も見えるからだ。
そして、わたしのフェチズムの呼吸――これは完全に個人的な領域だが、呼吸という行為に「命のやりとり」を感じる。相手と同じ空気を吸い、吐く。近距離で耳を澄ませば、相手の吐息が自分の体に当たる。植物が吐き出した酸素をわたしが吸い、わたしが吐き出した二酸化炭素を植物が吸う――その循環を思うだけで、妙にセンシティブな気持ちになるのだ。まるで間接キスのように、空気を介して互いの存在を交換している感じがする。だからこそ、わたしは森の中を歩くときに「ここで吸う酸素は植物たちが出してくれた新鮮な吐息なんだ」と妄想して頬を染めてしまう。もし植物たちに意識があれば、「おいおい、人間さん、わたしたちの吐息にそんなに興奮しないで」と言われそうだが、妄想は止まらない。いや、むしろそんなツッコミがあったらもっと興奮するかもしれない。自分でも引くくらいの変態性だが、まあいいじゃないか、人に迷惑かけてないし。
また、葉っぱをじっと観察していると、表面に生えた繊毛(トリコーム)や微妙にうねった葉脈の造形が目に飛び込んでくる。これはまたもや触覚的フェチズムを呼び起こす。人間の皮膚に産毛が生えているのを見て「うわ、なんかエロい……」と思うときがあるけれど、それと似ている感覚で、葉の手触りや見た目に心惹かれる。しかも、葉には種類によってワックス状の表面を持つものや、ビロードのように柔らかい表面を持つもの、鋸歯状に縁がギザギザしているものなど、多彩なバリエーションがある。人間の髪や肌、爪の形状が千差万別であるように、植物もまた「個性のるつぼ」だ。わたしはその多様性を目の当たりにすると、「人間同士の恋愛観に匹敵するくらい、葉っぱ同士の世界にも相性や刺激があるんじゃないか」と突拍子もない想像をしてしまう。
そして、葉っぱのフェチズムといえば、雨上がりの水滴のきらめきも外せない。透明な水珠が葉の表面をコロコロと転がる様は、見ていて息を呑むほど美しい。あれはまるで、汗や涙が頬を伝う様子にも見えるし、夜の営みで艶めく肌のようにも見える。水が光を反射して輝いているとき、わたしはその葉っぱをじっと眺めてしまう。「何という官能美……」と心の中でつぶやきながら、わざと指先で葉を軽くはじいて、水滴を飛ばす。すると水滴は葉からこぼれ落ち、地面に吸い込まれる。些細な動作だけれど、そこに官能的な興奮があるのだ。まるで、一瞬の感情の昂ぶりが滴り落ちていくみたいで、捨てがたい瞬間である。こういう一コマが、わたしの“濡れ感”を刺激してやまない。
そして、この「葉っぱが持つ官能性」は、社会のコミュニケーションにも通じると、わたしは勝手に関連付けてしまう。ビジネスの場では、よく「空気を読む」ことが大事だと言われる。葉っぱの気孔が空気をうまくコントロールするように、わたしたちも場の空気を読みながら言葉を選び、表情を作り、呼吸を合わせている。そこに失敗すると、まるで気孔が閉じてしまった植物のように息苦しくなり、うまくエネルギー交換ができなくなる。いわゆる「場の雰囲気が悪くなる」というやつだ。逆に、コミュニケーションがうまくいくと、気孔が開いて酸素と二酸化炭素がスムーズに交換されるように、お互いに情報や感情を気持ちよく受け渡すことができる。なんだか不思議だけれど、葉の生理学を勉強していると「これって人間社会も同じかも?」と思わされる。やはり自然に学ぶことは多いんだなあと痛感する。
ところで、葉っぱの呼吸にも陰陽のようなリズムがある。昼と夜で真逆の挙動をとる植物があるように、人間の活動もまた昼と夜でガラリと変わる。古典経済学的に言えば、昼は労働と生産性の時間、夜は消費と娯楽の時間……という風にも捉えられる。わたしはそこに「社会の呼吸」を感じる。昼が吸気、夜が呼気、あるいはその逆かもしれないが、とにかく24時間というリズムのなかで社会が膨張と収縮を繰り返し、生きている。まるで大きな生き物みたいに。都市部を夜に見下ろすと、蛍光灯やネオンが瞬き、昼間とは違った呼吸音が聞こえてきそうになる。わたしにとっては、この都市の夜景もまたエロティックであり、その根底には植物の昼夜リズムを連想させる要素があるのだ。うん、われながら相当にぶっ飛んだ思考回路だが、気にしない。
こうして、第3夜では「葉の呼吸」を鍵に、社会の呼吸やフェチズムの呼吸へと話を展開してみた。いよいよ次の第4夜では、花から果実へのプロセス――受粉から実りへと至る壮大な物語を、さらに背徳的かつ濃厚に語りたいと思う。花の美しさだけじゃなく、その後に続く果実化のステップにこそ、植物学の真髄といえるドラマが詰まっているからだ。受粉が成功し、種子が成長し、やがて果実が熟していくまでのあの流れは、人間の恋愛や妊娠出産にも通じるものがあるし、経営で言えば「プロジェクトのローンチから成果物のデリバリーまで」を連想させる。そう、すべてが繋がっているのだ――背徳感、知的興奮、ビジネスモデル、恋愛心理、フェチズム。ああ、思い出しただけでお漏らししちゃいそうなレベル(知的にね)でわくわくする。それでは、また次の夜にお会いしましょう。しっかり眠ってエネルギーを充填しておいてね。植物も、わたしも、あなたを待っているから。
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【第4夜】花の後に訪れる果実の狂宴、そして受粉から成熟への秘密
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「花が咲いたら、その次は果実へと移り変わる」。この当たり前のサイクルこそ、植物界における最大のドラマのひとつだ。花の開花はまばゆいばかりに世界を彩り、昆虫や動物、さらにはわたしたち人間の目を楽しませる。だが、花の命は短い。花びらが散りゆく刹那の儚さは、しばしば文学やアートのテーマにもなる。けれど、その見えないところでは命のバトンがしっかりと受け継がれていて、やがて果実という新たな世界が立ち上がるのだ。
受粉が成功した雌蕊は、子房を膨らませて種子を作る。そして、その種子を守るため、あるいは動物に食べてもらって遠くへ運んでもらうために果肉や外皮を発達させる。こうして甘くてジューシーな果実が生まれるわけだ。この仕組み、見れば見るほどエロティックだと思わない? だって、花は一瞬の美しさで交尾(受粉)を完了し、その後は“妊娠”とも言うべきプロセスに移行する。そして子を育むために栄養を集中投下し、ぷっくりとふくらんだ果実を形作る。これはどう考えても、人間の妊娠・出産プロセスを連想させる。しかも、果実が熟すほど甘みが増すのは、哺乳類などの動物に食べてもらうため。食べられることで種子を吐き出したり糞とともに排泄したりして、子孫を遠方へ運ぶ。そこには、まるで母性の犠牲的な愛情にも似た戦略が感じられる。わたしはこのダイナミックな変化と目的の明確さに、背筋がゾクゾクしてしまう。
花と果実の間には大きなギャップがある。華やかで儚い花と、ズシリと重量感のある果実。だが、そのギャップこそが魅力的であり、背徳感を煽る。わたしは時々、「あなた、本当はそんなに重たいものを抱えていたのね……」と、果実を見るたびに想像するのだ。桜の花が散ったあとにさくらんぼが実るように、梅の花が終わったら青梅がぶら下がるように、想像以上に重そうな実が枝につり下がる。その光景を見ていると、ちょっと切ないような、でもエロいような、不思議な感覚に陥る。花の美しさだけを賞賛していた人々が去ったあと、しっかりと次の準備をしている植物たち。まるで、一夜のアバンチュールの後で妊娠に気づき、ひっそりとお腹を大きくしていく女性のようでもあるし、「誰も気づいてくれないけど、こんなにも重たい未来を背負っているのよ」というメッセージにも思える。
ビジネスの世界においても、商品やサービスの「ローンチ」時には華々しいプロモーションが行われるが、その後の「成熟期」に入ると人々の興味は薄れがちだ。しかし、実はそこでこそ売上や利益が大きく伸びたり、既存顧客との関係を深めたりといった重要な局面がある。花が咲いた瞬間は脚光を浴びやすいが、その後の果実こそが本当の成果なのだ。わたしはそういうメタファーを好んで使う。クライアント企業にもよく「開花だけで終わるんじゃなく、ちゃんと果実化させましょう」と言う。なぜなら、どれだけ美しい花火を打ち上げても、真に価値を生み出すには地道なフォローアップや仕組みづくりが必須だから。これは植物が教えてくれる大切な教訓だ。
そして、果実が熟した暁には、それを食べる側にも大きな恩恵がある。わたしたちは果物の甘さや酸っぱさを楽しみ、その栄養を吸収する。植物は種子を拡散してもらう。まさにウィンウィンの関係だ。だが、「食べられる=死」ではないのか? という疑問も湧くかもしれない。植物にとっては、果実部分が食われようが構わない。その中の種さえ無事にどこかへ運ばれ、発芽すれば目的は達成される。むしろ、動物に積極的に果実を食べてもらうことで種を運ばせる戦略が確立しているのだ。ここに植物の残酷なほどの合理性とエロティシズムを感じる。自分の一部を削り取られ、噛み砕かれても平気。だって、それこそが子孫繁栄への最短ルートだから。身を捧げる母性……というよりは、もはや非情なプログラムに近いかもしれない。それを見ていると、「愛とは何だろう?」とまた哲学的疑問が沸くが、植物界における愛は、人間のそれとは異質なのかもしれない。
わたしは果実に強いフェチズムを抱く。特に熟れた果実の香りや手触りは、ダイレクトに官能を刺激する。桃の産毛に頬をすり寄せるとき、いちごの甘酸っぱい匂いをかぐとき、ぶどうの皮を剥く瞬間――どれもセクシーなイメージが頭をよぎってしまう。見た目にも、桃やマンゴーのジューシーさは人肌を連想させるし、ライチやイチジクなんかは中身がちょっと……いやもう言葉にはしにくい。でも、そこにこそエロスが宿っていると思う。どうして果実はこんなにも官能的なのか? それは、もしかしたら動物の本能を刺激するようにデザインされているからかもしれない。食べたくなる、舐めたくなる、噛み締めたくなる――それこそが植物の思うツボであり、人間が果実に屈服する瞬間だ。
こうした果実の世界は、ビジネスモデルにおける「ユーザーエクスペリエンス」に通じる。製品やサービスも、ユーザーが「食べたくなるような魅力」を感じるように設計されていなければならない。見た目のインターフェイスが美しく、香りや触感(UI/UXにおける感覚的な心地よさ)が心をそそり、しかもそれを手に入れることで新たな価値を得られる――そういう循環が回り始めると、製品は勝手に拡散されていく。まさに果実が動物に食べられて、種を運ばれるように。わたしはそこに高次のデザインを感じるし、「植物が先にやってるじゃん!」と再び脱帽する。自然界は、人間がやっとこさ理論化している事柄を、とっくに実践しているのだ。
さて、第4夜はまだ続きがある。わたしが特にフェチるのは、「果実が収穫される瞬間」だ。果物狩りなんかは、一種の祭典だと思わない? 人間が果実をもぎ取る行為は、植物の世界では「出荷のタイミング」のようなもの。タイミングを誤ると果実が熟れすぎて落ちてしまったり、動物に先に食われたりする。まさに市場投入のタイミングが勝負だ。企業でも新商品のリリース日を慎重に選ぶのと同じだ。テストマーケティングを経て、ベストな熟度を測り、どかんと市場に投入する。そこで爆発的に売れれば、ビジネスは大成功。もし時期を逃せば腐ってしまう。これは植物における「果実の旬」と同じ構造だ。
果物狩りをしているとき、わたしは「今だ!」というタイミングを見極めて、枝から果実をプチッと引きちぎる。そのとき、果柄が外れる軽い衝撃とともに、手のひらに重量感が伝わる。あの瞬間は、なんとも背徳的な喜びを感じる。植物から命を奪ったわけではないけれど、その実を頂くことで自分の糧にしてしまうのだから、一種の罪悪感がある。でも、同時に「わたしが食べることで、あなたの種はどこかで芽吹くかもしれない」という儚いロマンもある。口の中に果肉を含み、歯で噛み締めた瞬間にあふれる汁と甘味は、植物と人間の官能的な接点だと感じる。種をゴリッと噛んでしまわないように気をつけながら、一方で舌先はその甘さを存分に楽しむ。ああ、書いているだけでヨダレが出そう。こういう行為に、なぜこんなにもエロティックな要素を感じてしまうのか。きっとわたしの脳が変態的だからだろう。でも、きっとわたしだけじゃないはずだ。果物に官能を感じる人は、案外多いんじゃないかな?
ここまできて、ようやく植物の一生における「花から果実」という大きな流れを俯瞰できたと思う。しかし、それで終わりではない。次第に果実は腐り、種子は地上に落ち、そこから新たな芽が生え、根が張り、葉を広げ、やがてまた花を咲かせる。生と死、官能と腐敗、誕生と消滅がくるくると回るこの世界は、ある意味では永久運動のように見える。そして、わたしたちはそのサイクルに巻き込まれながら、時々果実を齧っては悦に入り、時々花を愛でては感傷に浸る。そこに背徳を感じるのは、人間が自分の意思でコントロールしているつもりでも、実は植物という巨大なシステムに組み込まれていることを薄々察しているからかもしれない。逃れられない運命のように、わたしたちは植物の戦略に乗せられている。甘受するしかない。その甘美さに、どれほど多くの芸術家や哲学者、経営者、変態がインスピレーションを得てきたか、計り知れないと思う。
さて、第4夜も相当濃厚に語ってきた。次はいよいよ第5夜――最終夜でありながら、まだまだわたしの妄想が余っている。この最終夜では、「人間と植物の未来図」を描きたいと思う。わたしたちがこれからどんな関係を築いていくのか、地球環境問題やテクノロジーの進歩、そして人間の変態的好奇心をキーワードに、さらにぶっ飛んだ予想を展開するつもりだ。もうすでに十分ぶっ飛んでいると言われそうだが、まだまだ足りない。最終夜では、植物学の枠を超えて、生命や意識、宇宙規模のビジネスチャンスにまで視野を広げてみようじゃないか。わたしはこの旅を終えるとき、きっと満身創痍の快感に包まれているに違いない。では、最終夜でお会いしましょう。指折り数えて待っててね。
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【第5夜】人間と植物の交歓、未来への妄想と知的エクスタシー
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最終夜。長いようであっという間だったこの旅も、いよいよクライマックスを迎える。わたしたちはここまで、植物の生殖から根っこ、葉っぱの呼吸、花と果実の変容までを、背徳感たっぷりに眺めてきた。では最後に、「これからどうなるの?」という未来について語ってみたい。人間は、植物なしには生きられない。地球上の生態系は植物を基盤に成り立っており、食物連鎖や大気組成、気候変動にまで影響を与えている。ビジネスや経済活動も、結局は農業や林業、水資源などに依存している部分が大きい。しかし、環境破壊や人口増加、都市化の進行によって、わたしたちはその基盤を脅かしている現実がある。
ここで現代社会が抱える矛盾が浮き彫りになる。高度なテクノロジーと利便性を追求しながら、地球のキャパシティを超えるような消費をしている。かたや植物たちは、何億年も前から緩やかに進化を続け、地球環境に適応してきた。もし、植物が「あんたたち、人間は自分勝手すぎやしないか?」と声を発したら、わたしたちはどう答えるのだろう。あるいは、植物が高度な意識を獲得して、「じゃあもうお前らに酸素はやらん」とでも言い出したらどうするのか。SFじみた妄想だが、ありえないとも言い切れない気がする。わたしはそういう極端なシナリオを想像するとき、なんとも言えない背徳的スリルを感じる。「植物に支配される世界」――ホラー映画にもありそうだけど、実はもうすでに支配されているんじゃないか? なんて思うことさえある。
では、逆に人間が植物を「完全に制御」する未来はどうか。例えば、遺伝子工学の発展によって、光合成効率を最大化したスーパープラントを作り出し、食糧問題やエネルギー問題を解決する――そんなSF的構想もある。人工葉緑体の研究や、地下空間での大規模水耕栽培など、実際にさまざまな取り組みが進んでいる。いずれは「地球の大気や気候をコントロールできる植物」を人間が設計する日が来るのかもしれない。そのとき、わたしたち人間は植物を奴隷化するのか、共生のパートナーとして迎え入れるのか。これは倫理や哲学、政治の問題になってくる。自然を改造するのは神の領域への冒涜ではないか、という宗教的見解もあるだろう。一方で、地球環境を救うにはそれしかないという実利的立場もある。ここで「背徳」という言葉がまた蘇る。制御すればするほど、背徳感がつきまとう。なぜなら、本来の自然の摂理をねじ曲げているから。
わたしは個人的に、「自然とテクノロジーの融合」こそが未来の姿だと感じている。植物の進化の知恵と、人間の科学技術を組み合わせることで、新たなエコシステムを創り出す。そこに背徳的魅力があるのは否定しない。だが、それが単なる支配や搾取ではなく、お互いの特性を活かした共生関係になれば、より豊かな世界が築けるかもしれない。たとえば、都市部のビルがすべて垂直農場になり、そこでは大量の酸素と食料が生産され、排出されるCO2や廃水も植物が浄化してくれる。ビルの外観は緑で覆われ、歩道にも根が張り巡らされていて、人間と植物が一体化した街が広がる。そんなビジュアルを想像すると、なんだかエロティックな近未来都市が目に浮かぶ。コンクリートと葉っぱの絡み合い、それはまさに人工と自然の抱擁だ。
そのとき、わたしたち人間はどんな思考をしているのだろう。おそらくは、もはや「植物を鑑賞する」とか「園芸を楽しむ」レベルを超えて、日常生活の一部として植物とコミュニケーションを取るようになるかもしれない。いや、植物に意識があるかないかは別として、センサーやAI技術を通じて、植物の状態や意思を感じ取れるようになる。すると、「この子、今日は水分が足りなくてしんどそうだな。よし、少しお水をあげよう」とか、「この子はもう少し日差しを欲しがっているみたい。ブラインドを開けよう」といった、微妙な共感が発生する。まるでペットを飼うように植物を感じ取り、植物もまた、そのセンサーを通じて人間に何らかの信号を送る……。ここにSF的なロマンスを感じるし、「バイオフィリア」(人間が生き物に対して本能的に愛着を持つ現象)を最大限に拡張した未来図とも言える。
そして、わたしの変態脳内が妄想するのは、「植物との融合身体」を手に入れる人間の姿だ。つまり、人間の体の一部を植物化し、光合成もできちゃうハイブリッド種が登場するのではないか、という想定だ。もし頭皮で光合成できるようになったら、食事の必要性がだいぶ減るかもしれないし、常に自分の体から爽やかな酸素が生まれるかもしれない。そしたら、エロいというよりホラーな感じもするが、一方で画期的なエコロジーだ。さらに、体表に葉緑素を仕込んで、日差しを浴びるだけで栄養補給ができるようになったら、もう人間は裸で日光浴すればいいだけになる。そもそも服って何のため? みたいな新しい世界観が開ける。変態的な空想だが、テクノロジーの発展を考えれば、いつか実現してしまうかもしれない。それこそが「夜のオトナの背徳的な知的体験」の究極形かもしれない。人間が植物になり、植物が人間になる。垣根が溶ける瞬間を想像すると、ゾクゾクが止まらない。
ビジネス的にも、こうしたバイオテックとライフスタイルの融合は巨大な市場を生むだろう。遺伝子編集技術やナノテク、AIが組み合わされば、新種の植物が生み出され、それと一体化する人々が現れる。農業界だけでなく、医療や美容、ファッション、建築、エンタメなど、さまざまな産業に波及する。想像してほしい――光合成ができるドレス、植物の根を張る建物、呼吸でシンクロするスマホアプリ……。なんでもアリの世界だ。そして、きっとそこには猛烈なフェチズムとエロティシズムが渦巻いているに違いない。「植物×人間」という禁断の融合を商品化すれば、「わたし、ついに植物になるの……」という背徳的ロマンを売りにするマーケティングが繰り広げられるだろう。ああ、考えるだけで快感が湧いてくる。人類はどこまで行ってしまうのだろう。
こうした壮大な未来妄想を経て、わたしは改めて「植物学入門」を振り返る。植物とは、単なる“静かで地味な生物”では決してない。むしろ人間の想像力を遥かに超える多様性と戦略性を持ち、わたしたちの文明や歴史、そして官能の深層にまで根を張っている存在だ。わたしがこのエッセイを通じて強調したかったのは、「植物こそがすべての鍵を握っているのでは?」という視点だ。経営においても、恋愛においても、哲学においても、植物は尽きせぬ示唆を与えてくれる。しかも、その示唆は単なる理屈やデータではなく、“身体と感情に訴えかけるエロス”を伴うものだと思う。その背徳感こそが、わたしたちを根源的に揺さぶり、学びを快楽に変えてくれる。
もちろん、ここまで延々と妄想を書き連ねた結果、「こいつ何言ってんだ?」という声が聞こえてきても不思議じゃない。確かに、これはもう常識的な植物学とは言えないかもしれない。だけど、そこがいいのだ。わたしは無駄に高度な思考を遊び心と変態性で味付けし、読者の脳みそを軽く混乱させたいという欲求に忠実でありたかった。幸い、あなたはここまでついてきてくれた。ありがとう。共にこの背徳の森をさまよう同士として、ぜひこれからも植物と戯れ、学び、感じ、そして欲望を満たし続けてほしい。
最後に、わたしから一つの問いを投げかけて締めくくりたい。「わたしたちは植物にとって、何者なのだろう?」 単なる花粉運びの役目を果たす昆虫のような存在? それとも、種を遠くに撒き散らす哺乳類のような道具? あるいは、彼らをさらに進化させる遺伝子改造の担い手? 答えはわからない。だけど、その問いを持ち続けることで、わたしたちはより深い植物との交歓が可能になるかもしれない。そう、背徳的でありながら知的な官能の世界へと、一歩踏み込むことができるだろう。興味があれば、ぜひ今夜も部屋の片隅の鉢植えに耳を澄ませてみてほしい。そこには、わたしがこれまで乱雑に語ってきたすべて――官能と知性、戦略とフェチ、生命と死――が凝縮されているはずだ。おそらく植物は、黙したまま笑っている。だって、最初からわたしたちの想像なんかお見通しなんだから。
これにてエッセイは終了である。長い旅だったね。約束通り、夜のオトナの背徳的な知的体験はここまで。わたしはすっかり満身創痍だけど、それでも不思議と満ち足りた気分だ。というか、まだまだ語り足りないのが本音だけど、それはまた別の夜にとっておこう。シリーズが続けば、またいつか「植物学」のエクストラ編をお届けするかもしれない。それまで、あなた自身の妄想力と変態性をフル稼働させて、新たな世界を広げてほしい。最後まで読んでくれて、本当にありがとう。今宵もどうぞ、ねっとりとした夢を。次に会うときは、きっとあなたはもう植物なしではいられない体になっているはず。。いや、もうすでにそうかもしれないね。ふふ、いずれにせよ、背徳の園でまた会おう。では、おやすみなさい。どうぞそのまま、植物の吐息に包まれて。
(有料化するかは不明ですが笑 とりあえず期間限定と銘打ってみました)