川端康成からミランダ・ジュライへ。 秘密の部屋から出られない
川端康成の「眠れる美女」を読んでからしばらく、この梅雨空のように気持ちが淀んでいる。読み進めながら一緒に連れていかれた例の ”深紅のびろうどのかあてん” がかかった和室に、まだ私一人残されているような心地がしているからだ。
その部屋から抜け出たい思いで手に本棚から取った1冊が、ミランダ・ジュライの「いちばんここに似合う人」岸本佐和子さん訳の黄色い本である。
この中に「水泳チーム -The Swim Team-」という短編があったのを思い出したのだった。川端康成の暗くねっとりと儀式めいた秘密の部屋から、勢いよくぱぁんと飛び出したかった。
でも、この部屋もどこか哀しい隙間のある部屋ではあるのだけれど...。
***
ミランダ・ジュライは映画監督でもあるからか、彼女の書く文章を読んでいると映画をみているような気分になる。
なかでもこの「水泳チーム」は私の頭の中でリアルに映像化されている。
乾燥した土地にガソリンスタンドと数件の家が寄り集まっただけの町とはいえないほどのちっぽけな町。海も川も湖もない、砂埃が舞う茶色い情景の中で、彼女は車も持たず一人ぼっちの部屋で寂しく暮らしている。
その町でかるく八十は越した老人3人に、ひょんなことから若い女性が自身の部屋で水泳を教えるコーチになるのだ。この町にはプールはない。では、
どうやって?
ボウル3つで。 (←注:いつやるの いまでしょ の間デス)
ところで、テキストがリアルに頭の中で映像化される理由については、ミランダの文章が台本を読んでいるかのようだと感じているからかもしれない。
あ、私に演劇の経験は勿論ありません。台本を読んだことも皆無です。
それでもそう感じるのは、例えばこういった文章が彼女の心情を動的に感じるような作用があるからなのだと思っている。
するとおかしなことが起こった。わたしは自分の靴と茶色のリノリウムの床を見ながら、この床ぜったい百万年ぐらい掃除してなさそう、と考えていて、そうしたらなんだか急にもう死んじゃいそうな気がしてきた。けれど死ぬ代わりに行った。水泳、教えてあげられるわ。プールなんてなくたってだいじょうぶ。
正確に言うと、これはミランダの書いた原文ではないので岸本さんの優れた訳によるものだとも思うけれど、この心的ニュアンスの表現が効いて映像がよりリアルに観える(気がしている)。
話に戻ると、この老人3人を従えて彼女は、自分のアパートのキッチンの床に塩水をいれたボールを3つ用意する。当初は顔をつけるのを嫌がった老人も、いつしか様々な泳法を身につけ(バタフライも!)床の上を埃や何か他のものにまみれながら進んでいく。
空想の中で水しぶきがあがり、ボウルからブクブクと息の泡がたつ。太った身体が身もだえするようにずるずると床を這う。息継ぎの声は荒く、顔をあげるたびに床をびしゃびしゃと濡らして色が濃くなる。
決しておふざけじゃない。
彼女は水には入らないタイプのコーチだけれど、週に二度の約束の2時間を存分に取り仕切っている。彼女がボールに塩を入れるのは、鼻から温かい塩水を吸うのが健康にいいと聞いたからだし(3人はうっかり鼻から吸い込むにちがいない)常に声をかけ、ホイッスルでプールの端も知らせるのだ。
彼女はその部屋の中で、教え子の提案に耳を傾ける余裕を自信でも育てながら、水までも支配する。目覚ましいコーチぶりだった。
***
この話、実は彼女が別れた男に話しかける形をとっている。
彼女は男に語り掛ける。
ねぇ、今から3時間前にあなたがハッピーな顔で白いコートを着た女の人を一緒にいるところを偶然みたの。見るまでは本当に別れたのかどうかもわからなかったけど、いまはあなたがとても遠く、点みたいに小さく感じる。
私は一番誰のところに戻りたいのかか。それはあの3人だ、と。
もうとっくに死んでしまったであろうあの3人のところに戻りたい。
頭の中で映像が立ち上がる。
住人が居なくなったガランとした部屋が映る。水浸しのキッチンの床は私の中では極彩色の赤色で、置かれた空っぽのボールが3つゴロンと転がっている。そこに、架空のエンドロールが流れている。
川端とはまた違う秘匿の部屋の中に、私はまた入り込んで、出られないでいる。