ラベンダーとカティサーク
ある日曜日の午後、ソノちゃんの家にお呼ばれした。ソノちゃんは私のインテリア学校時代の友達で、最近年下の彼と二人暮らしを始めたばかりだった。年下の彼の名はイチロウ。イチロウ君は私と同じ年で、建築家の卵である。
ソノちゃんの家に行くのはこれで2度目。
初めて訪ねたのはまだ一緒に学校に通っていた頃だ。パース作成に苦労していたソノちゃんに描き方を教えて欲しいと言われた。教える事はできないけれど、描いているところなら見せられると製図用具を持って出かけた。
学校で話している時は話題にならなかったので知らなかったが、当時ソノちゃんは結婚していた。案内された家が有名な埋め立て地、島にある新しいマンションで、「ここは実家? え、独り暮らし? へ、結婚してたんだ。」という流れで知った。
通された部屋はグレートーンで統一され、整然と片付けられていた。部屋の中央には白木の大きなダイニングテーブルが置いてあり、その上にはヤマギワ(照明器具メーカー)のカタログで見た事のあるペンダントライトがぶら下がっていた。インテリアの理想を学ぶ私の現実は、昭和の団地で家族4人のあれやこれやに囲まれるごっちゃ暮らし。かたやソノちゃんの家はショールーム並みの佇まい、比べるまでもない。ここはソノちゃんに借りて読んだことのある堀井和子さんの北欧テイストが感じられる素敵な住まいだった。
整ったこの部屋でソノちゃんが入れてくれた暖かなミルクティーを飲みながら、初めて互いの個人的な話をした。私の専らの悩みは家族にまつわるあれこれである。私はいま学校に通っている理由は、インテリアコーディネーターを目指すというよりも、この状況に変化を与えたくて、夢中になれることを探しているんだという話をした。ソノちゃんは柔らかく頷いてくれながら、静かに聞いていた。
ソノちゃんは日中SEの仕事をしていた。専門的な知識と技術が必要な職種に既についていて、こんな理想のような生活の場を持っている。それでも彼女自身はこの形ではない何かを求めているようだった。カウンターの端っこに写真が飾ってあったのを見せてもらった。スナップじゃなく写真館で撮影された、旦那さんとソノちゃんのツーショット。旦那さん優しそうだね、と言ったら、うん優しい、と言って少しだまった。
その少しの沈黙の間、そういえばこの素敵な部屋に、二人分の気配がないことを不思議に思った。最初に部屋に案内されたときに感じていた違和感のようなもの。余計なものがなくしっかり収納されているからと思っていたけれど、二人分の生活が行われている場としての体温のようなもの、片りんを感じないのはなんでだろう。整った中にもソノちゃんの好みと結びつく物は感じられるけど…。お家に入ってからずっと静かに漂っている香りの素を尋ねると、ラベンダーのアロマポットを見せてくれた。好きなものを紹介するときのソノちゃんの顔がぱぁっと明るくなって、私の勝手な違和感に意味はないと切り捨てた。
「窓の位置を考えて、ここに影をつけるとそれっぽく見えるよ。」書き上げた椅子の足の一辺を塗り重ねる。「ほんと。じゃこんな感じかな。」
***
イチロウ君と住むことになって引っ越ししたから遊びにおいで。
ソノちゃんからのお誘いに飛びついたのは、会うのも久しぶりだったしここが安藤忠雄設計のマンションだということもにも最大の興味を惹かれた。さすがイチロウ君、建築家の卵。
学校を卒業してからのこの2年の間に、私は設計事務所のアシスタントに就いて目まぐるしく忙しい日々を送っていた。ソノちゃんはインテリアの仕事には就かずSEを続けていたが、島を出て旦那さんと離婚をしていた。同業だった旦那さんは海外出張が多くすれ違いの生活だったらしい。結婚は親が薦めたお見合いだったけど、イチロウ君とはレンアイだよと言ってはにかんだ。本当に可愛い人。
花の名前が付いたコンクリート打ちっぱなしのマンションは、THE安藤建築という感じで、モダンで中性的。こんなところに住めるなんて羨ましいよぅと持って行った手土産のパウンドケーキを差し出した。出迎えてくれた二人が笑っている。この部屋に満ちた落ち着く香りは香りはラベンダーだとすぐわかる。あれから私もアロマポットを買ったのだ。団地の部屋で、父や弟になんやこのスースーするんわと言われながら使っている。目は閉じて余計なものを遮断しないといけないけれど。
お昼過ぎから夕方陽が落ちるまで。私たちはコンクリート打ち放しの部屋で、ただゆったりと話したり音楽を聴いたりして過ごした。陽の高さが移っていくと、壁にできる影も移ろっていく。イチロウ君はかなりの芸術家肌と見えて、目指す建築の理想論がとめどなく言葉と態度に溢れている。部屋にはイチロウ君の趣味と思われるものが数多見受けられる。積みあがったGA(建築雑誌)や建築家の分厚い作品集。模型にゲームにCD、映画のポスターが床に立てかけてある。
半面、ソノちゃんはここに島の家で持っていたものはほとんど持ち込んでいなかった。手放したのか残してきたのか聞けないけれど。ソノちゃんが不在となった部屋に、あの白木のテーブルの部屋に今度は旦那さんの気配が居る気がした。ソノちゃんの身体はもうここに来てしまって、あそこには戻らない。ラベンダーの残り香はあるだろうか。
とめどないイチロウ君の話を半ば流し聞きながら、そんなことを考える私はどこか変なのだろうな。
イチロウ君の熱い話が終わらない中で、私達はこの夕暮に似合うお酒とおつまみを用意するためにキッチンに立った。造り付け収納の扉をあけると、ここにソノちゃんの色があった。白いティーマのプレートに選りすぐりのカトラリー。デュラレックスのグラス。ペーパーコードのランチョンマット。
ソノちゃんはイチロウ君の話に優しく相槌を打ちながら、手際よくチーズを切り、ドライフルーツをカットする。作り置きのラタトゥイユを冷蔵庫から出して、簡単でセンスの良い夕暮時のおつまみをセットした。
それから、床に置いた沢山のお酒のボトルが並んだ中から1本、緑色の瓶を取り出した。ラベルに帆船の絵が描いてある”カティーサーク”。
これは前の家から持ってきたの。私しか飲まないから置いててもしかたないと思って。
一番小さいデュラレックスに、蜂蜜色の液体が注がれる。イチロウ君はいつの間にか話を止めてヘッドホンで音楽の世界に浸っているようだった。その様子をちらっと見たソノちゃんは、私にちょっと待っててねと言ってベッドルームからブランケットを持ってきた。 寝てたの? うん、寝てる。
イチロウ君にそっとブランケットをかけながら、これは奮発して新調したんだよ。リネンだから手触りがよくて気持ちいいんだよねと言った。
イチロウ(呼び捨て)は幸せやね。ソノちゃんもでしょ?
…うん。
私達は台所に立ったまま、カティーサークで乾杯した。初めて飲むストレートのウィスキーは、舌をぴりっとさせた後でのど奥をゆっくりトロリと下りて行った。吐く息が熱くて甘い。西陽がコンクリートの壁をそこだけオレンジ色にする。私はなんとなく、島の部屋に残る、会った事ない人の背中を想ったりしている。
あれから随分時間が経って、私達をとりまく状況も変わった。ソノちゃんもイチロウ君も、今はどうしているのか私は知らない。
変わらないのはラベンダーとカティサーク。
変わったのは私。