見出し画像

愛する技術

2011年3月下旬、

小学校5年生だった私は祖父母宅で両親と川の字で寝ている夜中に、東日本大震災の余震に遭った。たぶん震度3か4くらいだったと思うけど古いお家だったからかなり揺れ、棚から物が落ちてきてすごく怖かった。
うっすらと、でも、明確に身の危険を感じた。

寝室の壁には叔母が描いた額縁入りの大きな油絵が飾ってあって、それがガタガタ揺れて今にも落ちてきそうだった。
と、そのとき、母が私に覆いかぶさってきた。重く硬い絵が落ちてきて怪我をしないよう、身を挺して守ってくれのだ。

私はこの時、母の本気を感じた。

この人は自分の命に代えてでも私を守るんだろう。そのことに疑いの余地はなかった。
私も自分以外の存在にそういう思いを向けられる人になりたいと思った。そして、きっと自分の子供を持ち母親になればそうなれるんだろうな、と思うようになった。
思い返してみるとこの体験が、私が子供を欲しいと思うようになった原体験になった。


時は経ち、私は22歳になった。
初めてまともに異性とお付き合いをし、別れた。原因は私が彼を愛し優先し十分に満たせなかったことにあると思う。私はいつも、彼のために自分ができることを考えるんじゃなくて彼から与えてもらうことばかり考えていた。彼が思うように行動してくれないと、彼を置いてきぼりにして自分だけが幸せに過ごすための行動を選択した。
以前、彼から「あんずは1人で生きていった方が良いかもね」と言われたことがあった。人生を共に歩むパートナーの最有力候補だった彼から言われただけあって、当時は傷ついたしとても腹が立った。


でも時間が経った今振り返ってみると、彼の言う通りだったと思う。それは、私が1人で生きていくべき人間だ、という意味ではなくて、私は他者を愛する技術を備えていなかったということである。そのことに最近やっと気づいた。


昔から、子供を持てば人(我が子)を心の底から愛して大切にする人間になれるんだろうと思っていたけど、多分そういうことじゃない。例えば我が子の命を奪う親は少なからず存在するし、考えてみれば、愛されて然るべき対象が存在してもうまく?愛せないことはいくらでもある。

きっと人を愛する術を持たない今の私のままでは、我が子が生まれてもなりたい自分にはなれないと思う。それどころか、いつか子供の父親になるかもしれないパートナーとの関係も深められないと思う。

だから、人を愛することは対象(相手)の問題ではなく自分の問題だと捉えて、時間はかかるかもしれないけど愛する技術を磨いていこうと思う。そうすれば母みたいに私も、自分以外の存在に温かい愛情を注げる人間になれると思う。


さて、エーリッヒ・フロムの名著「愛するということ」の続きを読もう。

いいなと思ったら応援しよう!