"すべてがFになる"ー文章の背後にある存在論の正体
『すべてがFになる』は森博嗣によるミステリー小説で、1996年に、第1回メフィスト賞を受賞。ミステリー小説の金字塔となっている。
内容は、「孤島のハイテク研究所で、少女時代から完全に隔離された生活を送る天才工学博士・真賀田四季(まがたしき)。彼女の部屋からウエディング・ドレスをまとい両手両足を切断された死体が現れた。偶然、島を訪れていたN大助教授・犀川創平と学生・西之園萌絵が、この不可思議な密室殺人に挑む。」というもの。(講談社文庫の裏表紙から引用。)
ストーリー、謎解き要素、後半の大どんでん返しなど小説として大変楽しめたのですが、今回は、冒頭のオブジェクト指向に関する内容を深掘りしていきます。
内容にはあまり触れませんので、ストーリーのネタバレや、本筋に関わる考察を求めてやってきた方は別の記事をお読みください。ネタバレは多少含んでしまうかもしれません。下記のいちとせさんの記事が秀逸でした。
1.ふとした疑問
ストーリーが面白くて約1日で読み終え、感傷に浸っていたところ、
「巻頭の引用は何のためにあったのか?」
という疑問が沸きました。今回はこのことについて、自分なりに考えてみたいと思います。
冒頭で紹介した「それでは、なぜ人間は〜」から始まる文章は、建築家である青木淳氏の著書である『オブジェクト指向システム分析設計入門』からの引用です。HP上で全文が公開されておりますので、読んでみてください。
2.オブジェクト指向という言葉
上記の引用を参考にすれば、オブジェクト指向とは、実体論(構造主義)であり現象論(機能主義)である。ということになります。もう少しざっくり言ってしまうと、哲学的な考え方(=構造主義)と、実際プログラミングにおける考え方(=機能主義)の2つがあるということになります。
プログラミングでは「オブジェクト指向」、哲学では「オブジェクト指向存在論(Object Oriented Ontology)」と存在論が付くかつかないかで区別されているようです。
3.オブジェクト指向のスタンス
プログラミングにおけるオブジェクト指向は一旦置いておいて、オブジェクト指向存在論について考えていきたいと思います。
まず、いくつか引用を見てみましょう。
「私が信奉するのは、オブジェクト志向存在論 object oriented ontology, すなわちOOOである。(p.18)」というように、モートンはOOOの立場をとっており、ハーマンは『四方対象:オブジェクト指向存在論入門』で有名です。
ここで問題になっていることは、主体者(相関するもの)と個体的対象(相関されるもの)は、なぜか、今まで主体者優位であったということです。つまり、主体者優位に対するアンチテーゼが、OOOの立場でありそうです。
例えば、普段の職場で「部下」と「上司」という役職が成り立つのは、役割や立場による関係によるためです。関係主義的に考えると、「部下」という個別的対象は、与えられた仕事を効率よくこなす存在となります。
当然、部下である私たちは、「部下」以外のたくさんの側面を備えていますが、主体者優位では、私たちの「部下」以外の側面が、捨象されてしまいます。それがよくない!というのが実体論になるわけです。
これが、あらゆるオブジェクトに対して、人間(=主体者)優位な存在論になってしまっている。そのため、人間中心主義という特権的な立場を手放して、すべてのオブジェクトに自立性を認めていこうというのが、OOOのスタンスです。
人間中心主義的でない、特権的でない、関係主義的でない、すべてのオブジェクトの立場をフラットにしたときの存在論。
4.アクセスできない孤独な存在
なぜ、すべてのオブジェクトをフラットに考えるのか。すごくシンプルに言うと、我々は、ある対象(オブジェクト)について何もわからないからです。
上記の引用にある「アクセスする」という言葉は、「見る」「聞く」「触る」「〜について思考する」などの言葉に置き換えできます。
私たちがどれだけ頑張って、ある人物の後ろ姿を見ても、顔はわかりません。どれだけ頑張って聞いても、その人の本心はわかりません。どれだけ考えても、未来を予言することはできません。このように、人間の世界に対するアクセス方法は以外と不完全なのです。
あるオブジェクトが持つ内在性を完全に理解することはできないため、そのオブジェクトは、他から隔離された(=退隠した)状態になる。
モートンは、「世界はつねに必ずや不完全」と述べています。ただし、不完全であるが故に、あらゆるもの(=人間ならざるもの)と視界を共有することで、新たな全体像を作り出すことができるとと述べています。
じゃあすべて無意味で、全部諦めて暮らせってことか!とお怒りになるかもしれません。これは、近代有限性というテーマに繋がります。今回は詳しく触れませんので、このことについて書いた私の記事をお読みください。
5.『すべてがFになる』との関連
それでは、『すべてがFになる』本編に戻って、オブジェクト指向存在論が作品にどのように現れているのかをみていきましょう。まずは、引用から。
挙げていけばキリがないのですが、登場人物は基本的に、感情や他者との関係性というものに無頓着です。今回の殺人事件についても、わかりやすい動機(誰かに対する復讐や憎しみ)の記載はありません。
つまり、二次的で現象的なものについては、あまり記載がないのです。一方で、どのように密室殺人が行われたのか、という問いに対して、大学教授の犀川はとことん思考を巡らせます。退隠しているオブジェクト(密室殺人の手法)は、絶対的な孤独であり、他からのアクセス(思考)の届かないところにある、一次的なもののあり方です。
そういえば、この殺人事件が起きた真賀田研究所は、妃真加島という架空の孤島で起きます。事件発生中は、外部との連絡も一時的に遮断され、世界から隔絶された場所となります。加えて、死体が見つかった場所は、真賀田研究所の中の密室であり、さらに世界から隔絶された場所(=絶対的に孤独な場所)となっいます。
このように、二次的で現象的な、関係や感情などにはフォーカスせず、それぞれのオブジェクトが孤独に独立している状態が際立っています。そして、その退隠しているオブジェクトを何とか理解しようと諦めない姿勢。ここにオブジェクト指向存在論的な描写であるのはないかと考えます。
加えて、登場人物が複数の人格を備えているというのも、オブジェクト指向存在論的ではないかと思います。
犀川は、自分の複数の人格を自覚しているものの、他者にそれを見せることはない。真賀田四季は、他者にその人格を見せるものの、他者からは理解されない。どちらも他者からは理解されない、アクセスできない状態です。
感情や関係性という二次的なメガネを通してストーリーを構築するのではなく、自分そのもの、他者そのもの、真実そのものを書こうとする姿勢。そこから現れる作品の雰囲気にオブジェクト指向存在論の気配を、密かに感じることができるのではないかと思います。
6.おわりに
今回は、『すべてがFになる』の巻頭の引用に注目し、オブジェクト指向存在論を紹介しながら、その考えが作品のどの部分に現れているのかを考えました。
意気揚々と書き始めたものの、青木淳氏の『オブジェクト指向システム分析設計入門』は読めば読むほどわからないし、「オブジェクト指向って何?」と自問するものの、自答はできずに書き終えることとなりました。
森博嗣作品は、スカイ・クロラシリーズを3年ほど前に読み、いつか『すべてがFになる』も読まなきゃなと思っていました。たまたま年始に友人から借りて、読むことができました。『すべてがFになる』もスカイ・クロラシリーズ同様に、感情描写は少ないが、なぜか切なく、少し悲しい気持ちになるような雰囲気があり、とても良かったです。(スカイ・クロラは、映画も本もどちらも好きです。)
きっと「感情描写は少ないが、なぜか切なく、少し悲しい気持ちになるような雰囲気」というのは、ノスタルジーなんだと思います。美術作品を見たときのような、自分とその世界との距離。異邦性があるが、どこか懐かしい、安心できる‥‥。『レヴィナス入門』も引用すれば良かったかもしれません。
この、「同情なんかで、あいつを侮辱するな!」というセリフ、いいですよね。繰り返しになりますが、キルドレという設定も込みで、感情や関係性みたいなものを否定するスタンスがよく現れていると思います。
2024年最初の投稿がこんなに長くなるとは思いませんでした。色々意見がありましたらぜひコメントをお願いいたします。
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