夢に対する私のスタンス(夢の学び38)
■私の専門分野
私は「職業は何ですか?」と問われるのがいちばん困る。
しかし「専門は何ですか?」と問われるなら、ある程度明確に答えることができる。
以下に、年代ごとの私の「専門分野」の変遷を示しておく。変遷ではあるが、移り変わったというよりは積み重なったと言うべきだろう。
20代から30代にかけては、「テクニカルドキュメンテーション」という分野を専門に仕事をしていた。簡単に言うと、「込み入った難しい(技術的な)内容を、いかにわかりやすく人に伝えるか」という技術である。その分野で「構造化ドキュメンテーション」という最先端技法を構築した。これはコンピュータ・システム開発の方法論を文書作成に応用したもので、私はこの分野における日本の草分け的存在である。広く言えば「ヒューマン・インタフェース」の分野だ。これはすなわち、人間とシステムをいかにつなぐか、という命題である。この命題での最大の誤りは、たとえばAI問題がそうであるように、「技術を人間に合わせるのでなく、人間を技術に合わせようとする」ことである。(AI問題に関しては、またの機会に)
<この分野の著書・訳書>
『マニュアル作成の構造化手法』日経BP社刊(著)
『決定版! ビジネスドキュメントの説得技法』日経新聞社刊(共著)
『マニュアル・バイブル -使いやすいユーザー・マニュアルの書き方-』啓学出版刊(訳)
『ドキュメント作成方法論 -マニュアル制作の最先端手法-』日経BP社刊(共訳)
30代後半から40代にかけては、個人の自己実現や企業の目標達成をサポートする仕事を通じて、主に「モチベーション」という分野を専門にしていた。そこで新たに開発した方法論は「添削しない文章指導」「ノルマを課さない営業方法」「リーダー不要のチームビルディング」「答えを押しつけないカウンセリング手法」といったものだ。総じて言うなら「ヒューマン・タスク・インタフェース」とでも呼ぶべき分野だろう。この分野でも「タスクを人間に合わせるのでなく、人間をタスクに合わせようとする」悲劇がまかり通っている。
そこで、この悲劇を解消する細かいノウハウを「組織内人材最適化プログラムPra★stor(Program for Adapting Staff in Organization)」としてまとめた。これによって、組織運営の考え方が根本的に変わるはずだ。
実は、この新しい組織運営パラダイムは、いじめ・虐待・ハラスメントなどの対策にもなる。この分野で、今のところ私の代役を務められる人間はいない。
<関連サイト>
https://prastor.howlingwolf.info/
https://note.com/anthonyk/m/me7eedb66a6dc
<この分野の著書>
『いじめ現象の全貌と脱却戦略』日本橋出版刊(共著)
※関連動画→https://youtu.be/BNCPPS8fudc
40代後半から50代にかけては、主に「プロデュース」という分野を専門にしていた。音楽、映像、書籍、イベントなどの企画・制作、あるいは個人の自己実現のナビゲーションといったことである。ここで開発した方法論は、簡単に言うと「五感のすべてに訴えることで、五感を超越した感覚を顕現させる」といったものだ。これを名付けるとしたら「トランス(超)ヒューマン・インタフェース」とでも呼ぶことになるだろうか。私のプロデュースにより、二人のミュージシャンが重要な音楽賞を受賞し、一人の女子高生が第一志望の大学に合格した。ここでの成功の秘訣は「タスクを人間に合わせた」ことである。もちろん、私自身のセルフプロデュースにも同じ方法論を用いている。
<この分野の著書>
「コズミック・スピリット」(自費出版)↓
https://cosmicspirit.howlingwolf.info/index.html
<関連サイト>
http://www.jvcmusic.co.jp/lohas/
https://www.rinpara.com/GR/GR_755_1.htm
https://www.youtube.com/watch?v=aaicB_vDwcA
Howling Wolf Records (fc2.com)
さて、いよいよ60代だが、今現在の私の専門分野となると、やはり「夢学」ということになるだろう。しかも「インテグラル(統合)夢学」である。いわば、20代から蓄積してきた様々な専門分野をすべて統合して構築したまったく新しい分野である。簡単に言うと、夢を介して人間の無意識領域と意識領域をインタフェースすることにより、人間をいかに進化させるか、という命題である。これは現在進行形であり、それを名付ける言葉を、私はまだ持たない。あえて言うなら「統合人間学」への第一歩か。
<関連サイト(有料)>
https://note.com/anthonyk/m/m292cc1f2b3e8
https://note.com/anthonyk/m/ma605569f7fc3
https://note.com/anthonyk/m/m6b91eb0c1ad7
<関連サイト(無料)>
https://note.com/anthonyk/m/m32fac67a0459
https://note.com/anthonyk/m/m8c72e0e47a77
■私の今の専門は「インテグラル夢学」
私は今、「夢学」(インテグラル夢学)の立場から人間的現象を見ている。決して生理学でも心理学でもない。
私は、生理学の立場から夢を語る人を知っている。
私は、心理学の立場から夢を語る人を知っている。
しかし、夢学(特にインテグラル夢学)の立場から夢を語る人には、お目にかかったことがない。唯一の例外は、我が師匠の大高ゆうこ氏だろう。
もし、夢を生理学の一分野として扱うなら、夢は脳が作り出した幻想ということになるようだ。そうなると「気持ちのいい夢は○、悪夢は×」となる。
たとえば、生理学はこんなことを言う。
「悪夢に悩まされてよく眠れない? それはお辛いでしょう。眠剤を処方しておきます」
「ご自分の睡眠のリズムをよく把握して、安眠できる環境を整えれば、眠りが深くなるので、夢をみなくてすみますよ」
しかし、私は、夢学の立場から生理学がどう見えるかを語る。私から見ると、生理学は器と中身をはき違えている。「夢は脳のどこかからやってくる」と生理学は考えるが、「夢は人間の意識を脳の外側に連れ出すためにある」と夢学は考えるのだ。
これは単なる思いつきの逆説ではない。物理学、医学・生理学、生命科学、心理学、宗教学などを統合するかたちで夢を考えると、そういう結論になる、ということだ。
もし、夢を心理学の一分野として扱うなら、たとえば悪夢は一種の病的現象とみなされるかもしれない。つまり、悪夢はストレスや病理が作り出した症状のひとつであると・・・。
たとえば、心理学はこんなことを言う。
「その夢は、あなたの性的欲求不満からきているようですね」
「その夢は、現実に受けたストレスを反映したもののようですね」
「その夢は、現実に起こることの予行演習で、あなたに心の準備をさせているようですね」
しかし私は、夢学の立場から心理学がどう見えるかを語る。私から見ると、心理学はときに「引き金」と「弾丸」、「切手」と「手紙」をはき違える。「引き金」や「切手」は、メッセージを届けるための「手続き」であって、メッセージそのものではない。メッセージとは、ときに弾丸であり、ときに手紙である。
夢は病んだりしない。夢はむしろ病理を警告するアラームないし治療者の立場であり、本人を絶対的に成長(進化)させようとする指導者の立場なのだ。夢は、現実に起こっていること、起ころうとしていることによって引き起こされるのではなく、それらが本人にとって何を意味するかを伝えようとしているのである。だから、その人にショック療法が必要だとなれば、夢はショックを与えもする。警告に気づいてほしいからだ。
もし、夢を「超・心理学」の一分野として扱うなら、夢は霊的現象ということになるようだ。たとえば「超・心理学」は「夢は霊界からの啓示である」といった言い方をするかもしれない。しかし、私は、夢学の立場から「超・心理学」がどう見えるかを語る。私から見ると、夢は肉体的現象でもあり心的現象でもあり霊的現象でもある。どれかではない、すべてだ。すべてであると同時に、それらを超えてもいる。人生は、夢をみることから始まり、夢をみることで終わるとも言える。「誕生と死」、あらゆる人の人生におけるこの二つの重要な瞬間では、夢と現実はひとつだ。
私はインテグラル理論を夢学に応用した「インテグラル夢学」を構築した。
しかし私はインテグラル理論の専門家ではない。だから、「インテグラル理論の立場に立つなら、夢がどう見えるか」をまとめたわけではない。「夢学の立場に立つなら、インテグラル理論がどう見えるか」をまとめたのである。
そんな私から見ると、インテグラル理論は「人間を作るものは意識ではなく無意識である」と言っているように聞こえる。つまり、無意識を「材料・兼・工場」とし、「無意識の意識化」という加工を施すことにより、人間が作られると・・・。
夢学の立場で言うと、それは正しい。
また、インテグラル理論はこうも言っている。
「人間の無意識は、ホロン階層構造的に、あるいは創発的に(下位構造を「含んで超える」かたちで)意識に開き出されてくる」
「(人間に限らず)進化とは、“自己超越を通じた自己実現”にほかならない」
夢学の立場で言うと、これも正しい。
総じて言うと、インテグラル理論と夢学は極めて相性がいい。
「インテグラル夢学」を提唱できるのは、今のところ世界で私一人だ。
■夢は独立した別の人格と思うべし
夢学以外の立場に立つなら、夢はその人の人格や個性、人生の課題、社会とのかかわりなどを反映した想像力の産物、となるようだ。しかし、はっきり言っておくが、夢はそれをみた人間の人格の一部ではないのだ。もし「夢は私の一部です」と言える人間がいるなら、それはあらゆる無意識が意識へと統合できている(すなわち「悟り」に至った)人間だけである。
したがって、夢学の立場に立つなら、夢には独立した人格があるとみなした方がいい。
だからこそ、ドリームワーク(夢の意味の読み解き)の場では、私なら、クライアントとともに、クライアントがみた(むしろみせられた)夢の「言い分」に注意深く耳を傾ける。クライアントの「言い分」ではない。あくまで夢の言い分である。それ以外のことはしないし、する必要もない。だから私は、「あなたがみた夢は、私の耳には○○○と言っているように聞こえる」といったことも言う。
ドリームワークの場では、主役はあくまで「夢」である。いわば夢の人格が、夢という舞台で演じるドラマを、クライアントもカウンセラーも一緒になって観客席から鑑賞し、その舞台を評価・吟味する評論家になるのである。「このドラマのテーマは何で、役者が演じている事柄にはどんな意味があるのか。そうしたことは、私たちが生きることに関して何を伝えようとしているのか?」といった具合いである。
このスタンスが何より重要で、これによって夢をみた本人は、夢と自己とが同一化した状態から差異化した状態へと移行する。これがドリームワーク(夢の読み解き)の最初の眼目である。
あなたが生理学的観点から夢を扱うなら、「夢には独立した人格がある」などという発想すら湧かないだろう。
あなたが心理学的観点から夢を扱うなら、特定の心理学理論の土俵の上に夢もクライアントも自分も乗せることになりかねない。「超・心理学」だったとしても事情は同じだ。夢はむしろ特定の「土俵」から降りることを私たちに要求してくるのだ。そういう意味で、夢学は心理学の一分野ではない。したがって「夢学」と「夢の心理学」は別物である。
■夢が自主的に選んでいるもの
夢は、夢をみる本人をとにかく人間的に成長(進化)させたがっているし、本人が窮地に立たされているなら、本気で救い出したいと思っている。
夢は、夢をみる本人に常に重要な何かを伝えようとしているのだ。
それがなるべく効果的に伝わるよう、あらゆる素材を用いて物語や場面、シチュエーションや登場人物や小道具を組み立てる。その時点において、夢は舞台監督でもある。
たとえば、本人がその日の昼間、会社で上司に叱責されたとする。その出来事が、伝えたい内容にとっていちばん都合がいいとなれば、夢の人格はそれと同じシチュエーションを夢に登場させるだろう。しかし夢は、そのシチュエーションそのものを伝えたいのではなく、それが象徴する何かを伝えたいのだ。この場合、シチュエーションが引き金で、それが象徴する何かが弾丸である。
たとえば、本人が成長のために克服しなければならない人格上の問題を抱えているなら、夢は、その人格上の問題を象徴する実在の人物あるいは架空の人物、動物、道具、出来事、風景などを登場させるだろう。その人格上の問題を克服することが急務なら、夢はそうした象徴を使って、本人を殺させもするし、性的誘惑を仕掛けさせもする。
このような言い方をすると、「夢を擬人化しすぎていないか?」と疑問視する声も聴こえてきそうだが、ちょっと待っていただきたい。「擬人化」とは、人格でないものを人格に喩えることを指すが、私はそもそも夢を独立した人格とみなすことを謳っているのだから、これは擬人化ではない。
■無意識が意識をコントロールしている
あるいは、あなたはこう思うかもしれない。
「さっきからオマエの話を聞いていると、まるで夢がその人の人格を操ろうとしているように聞こえるが・・・」
そう、夢学の立場から言うと、それが本来のあり方なのだ。
夢に何度も救われてきた私が言うのだから間違いない。
たいていの人が、「意識が表で無意識が裏」「意識が日向で無意識が日陰」「意識がメインで無意識がサブ」だと思い込んでいる。しかし、実は逆なのだ。無意識の方が意識をコントロールしている、というのが夢学の立場である。
だからこそ、人はときに、意識で想い描いていることと真逆の結果が出たときに愕然とするのである。しかし、もしその結果が、無意識による密かなコントロールによるものだとしたら・・・?
はっきり言っておこう、無意識がゴーサインを出したものしか現実化しない。そのサインは必ず夢に現れる。したがって、夢のサインに注意を向けていれば、優先順位を間違えたりしない。
この「夢・虎の穴」シリーズの「多重人格者のみる夢」の記事において、解離性同一性障害(いわゆる多重人格障害)の人がみる夢についてご紹介した。
この病気の人は、自己が複数の人格に分裂していて、それぞれの人格がスイッチして主人格を演じることになるため、ある人格が主人格になっている間は、その他の人格には記憶がない。したがって、自分が複数の人格に分裂していることに、通常は気づけない。こういう人が夢をみるなら、ある人格だけがある夢をみて、それを憶えていて、その他の人格にはその夢の記憶がないように思えるが、実際には、同じひとつの夢を、すべての人格がそれぞれの視点から別々にみていて、そのすべての記憶があるというのだ。つまり、意識の上では複数の人格に分裂していたとしても、無意識裡には、そのすべての人格がつながっている(「統合」とは呼べないにしろ)、ということを意味する。
だとすると、そういう無意識の代弁者である夢が、人格の分裂という病理自体を告発していることになる。これは、分裂している人格のどれかにできることではない。つまり、夢は本人の(見かけ上の)人格の「外」にある、ということだ。
■無意識から意識へのトランスレーション
夢は、ある「素材」、ある「引き金」、ある「切手」を用いて、それらが象徴する「何か別のもの」をメッセージとして送ってよこす。夢はなぜそんな回りくどいことをするのだろう。そのひとつの理由は、無意識の言語と日常的な意識の言語では、構文がまったく異なるからだ、と私は考えている。逆説的に言うなら、言語表現を変えることによって、意識領域と無意識領域を分ける必要がある、とも言えるかもしれない。
ユングが調べた通り、言語構造が異なる様々な文化圏で、時空を超えて共通の神話が存在したり、(意味合いは少しずつ異なるにしろ)人々が共通の夢(泳ぐ夢、飛ぶ夢、落ちる夢、排泄に関する夢、性的な夢、怖いものに追われる夢、人前で裸になる夢、殺す夢、殺される夢など)をみていたりするのは、神話や夢の出所が言語や文化の違いを超えた、人類共通の普遍的なところにあるからだろう。それを「集合無意識」と呼ぼうが、「アカシックレコード」と呼ぼうが、「形態形成場」と呼ぼうが、「阿頼耶識」と呼ぼうが、「アートマン」と呼ぼうが、何でもかまわない。
そこで夢は、その人の無意識の中身を意識の構文へと「変換・翻訳(トランスレート)」するために、「象徴化」という「手続き」を踏むのに違いない。したがって、ドリームワーク(夢の意味の読み解き)とは、無意識の言語から意識の言語への構文変換(トランスレーション)にほかならない。
さて、「インテグラル夢学」の次にくる私の専門分野は何だろう。夢学に立脚し、より統合された「人間学」ということになるが、私がすでに着手しているのは「インテグラル平和学」とでも呼ぶべきものである。つまり、「なぜ人は戦争を起こすのか」に始まり、「どうすれば世界に恒久的な平和が実現できるのか」に至る道である。
誤解を恐れずに、非常に厳しい言い方をするなら、この命題の出発点はおそらく、ケン・ウィルバーの次の言葉になるだろう。
※「インテグラル平和学」の関連動画
https://youtu.be/NZnTXgySjGU