映画『サユリ』介護視点レビュー|ホラーの姿をしたファンキー認知症映画
認知症や介護がサブカルチャーでどのように描かれてきたかということを考えるのがこのコラムなのですが、今回はまさに認知症のばあちゃんが主人公のホラー映画『サユリ』が題材です。
他のレビューではホラー的な切り口や、怖い場面、ばあちゃんの凄さについて語られていましたが、この映画はまさに認知症と介護を真正面から描いた作品と言えると思います。そしてこの作品はホラーの形を借りた「生」をまっとうするための映画なのです。そこに認知症と介護、そして不登校や引きこもりなどのテーマが重ねられていました。
作品のあらすじはこんな感じです。
※以下ネタバレを含みますのでご注意ください
念願の一戸建てに引っ越してきた神木家。夢のマイホームでの生活がスタートしたのもつかの間、どこからか聞こえる奇怪な笑い声とともに、家族が一人ずつ死んでいくという異常事態が発生。神木家を襲う恐怖の原因は、この家に棲みつく少女の霊「サユリ」だった。一家の長男・則雄の前にもサユリの影が近づき、則雄はパニック状態に陥る。そこへ認知症が進んでいるはずの祖母・春枝がはっきりと意識を取り戻して現れ、「アレを地獄送りにしてやる」と力強く言い放つ。則雄は祖母と2人、家族を奪ったサユリへの復讐戦に挑む。(映画.comより引用)
認知症と介護でサユリに狙われやすかった
この家族がサユリに狙われたのは介護も原因の一つだと思います。そもそも引っ越してきた理由はなんだったでしょうか?ただ広い家に住みたかったわけではなくて、おばあちゃんとおじいちゃんと同居というのが理由の1つだったはずです。なぜなら、ばあちゃんの言動が最初からすこしチグハグで認知症なのがわかるからです。つまり、祖父母の老老介護では行き詰まっているので、息子家族が引き取ってみんなで面倒を見ましょうということなんですね。
この初期設定を見ただけでも介護経験者はその先の大変さが思いやられます。私も母が認知症になったので父と母を北海道から引き取りました。母はかなり認知症が進んでいたので、洋服を着替えさせたり、トイレの失敗の後始末をしたり、お風呂に入れたり仕事どころではなかったです。介護を頑張るとやってもやっても親はどんどん老いていくので、こちらのメンタルも追い込まれてしまうのです。
子育ては介護と大変さは似ていますが、子どもが成長していくから救われる部分がありますが、介護はその真逆なのが辛いところです。本当に1日1日が綱渡で、かわいそうだし、やってあげたい気持ちと、でもいろんなトラブルを起こすから(おしっこをもらしたり、食べ物をこぼしたり、子供と一緒になっちゃうんです、、、、)それに腹が立ったり。心が落ち込みすぎて、精神科のカウンセリングに通うほどでした。
ただでさえ介護で大変になる家族なので全員メンタルが不安定になっているのは確かです。そりゃ家族全員が霊のサユリの方に心を持っていかれると思います。だから、この家族はサユリという霊の力だけでなくて、元々霊に狙われやすいダークサイドに落ちかかった家族だったといえるのです。
認知症や老いをポジティブに描いているのが面白い。
認知症はボケたら家族や娘や息子の名前もわからなくなるイメージがありますが、ストレートに物事を忘れているのではなく、思い出したりわからなくなったりがあって、“まだら”なんです。ウチでも親が僕の名前を忘れてしまったんですが、風邪で熱が出た時に名前が出てきた時には驚きました。どんどん一方通行で忘れるだけでなく、記憶が行ったり来たりするものなんです。
だから、この作品のおばあちゃんも、ある刺激で昔の記憶がもどって覚醒するっていうのは、あながちファンタジー的発想でもなく結構アルアルなんです。でも、その覚醒の仕方がぶっ飛び過ぎていて、ばあちゃんかっけ〜!となります。元々あそこまでファンキーなおばあちゃんだったとは誰も想像しなかったでしょう。
また、このおばあちゃんには家族の願望も重ねられています。認知症になったらやはり家族は悲しいもの。認知症をなってしまったのをあきらめつつも、いつか昔の元気な頃のお母さんに戻って欲しいとどこかで思っています。そもそも、身体は動くのに記憶だけが抜け落ちている状態ですから、頭のどこかに昔の母が残っているような気がするのです。パソコンの動きは遅くなってきているが、データ自体は残っているような感じ。新しいハードディスクで、そのデータを読み込んだらまた動き出すんじゃないか、そんな想像をしてしまうのです。
その願望をこの映画は過剰なまでに、かなえてくれました。夢でも見ていたかのように、認知症から目覚めて、幽霊と戦ってくれます。そのギャップがあまりにも激しく笑えるのですが、認知症の親をもつ人は笑ってその後泣けてくるのです。
引きこもりのサユリがばあちゃんと出会うのが早ければ、、、
サユリが怨霊になった原因は父親の性暴力で引きこもりになってしまったことです。引きこもりになるかならないかは紙一重だと思います。サユリがやられてきたことを考えたら怨霊になるのもしょうがないと思えるほど同情します。サユリが不幸だったのは、このばあちゃん的な人に出会わなかったこと。不登校を経験するとずっと部屋に引きこもったままになるんじゃないかとか、親子喧嘩がエスカレートして暴力沙汰になるんじゃないか、と心配することがあります。
でも、そうなる家族とそうならない家族の違いは何だろうか。このばあちゃんのように、子どもを無条件に応援して守ってくれる存在だと思う。親子だけだとどうしても対立することもある。しかし、第三者的な人。それは先生かもしれないし、親戚のおじさんかもしれない。ちょっと家族とは離れた目線で子どもをバックアップしてくれる人がいると、どれだけ助けられるか。ウチの不登校の経験としても、カウンセラーだったり、塾だったり、学校に行けなくても、外との関わりをできるだけ増やそうと夫婦で話し合っていました。そういう意味でも、このおばあちゃんという存在はちょうどいいんですよね。
だから、返すがえすもサユリがおばあちゃんと出会っていれば、悲惨な末路になり怨霊になることもなかったのかなと思います。
不登校、引きこもり状態の子供たちに思うのは、一人でいることが一番自分を追い込んでしまうのです。どんな場所でもいいから、外とつながることが救いになると実感として思います。家族が不登校や引きこもりを隠そうとしてしまい、家から出ないのが良くないと思います。学校へ戻れというのではなく、趣味や好きなことで外の人と繋がることができると、子どもたちを応援してくれる人が必ず現れます。人は人との関係の中でしか自分に自信を持てないものです。外で誰かと関わりを持つことができれば「お前すげーじゃん」と言ってくれる人に出会えるのです。そんな人に一人でも出会えればなんとか人生やっていけるものです。サユリはそれが出来なかったのが不幸だったし、ノリオは家族があんなことになってピンチになっても、ばあちゃんが覚醒してくれたというのが救いになりました。
「外をよく、内をよく、命を濃く」ばあちゃんの教え
認知症や介護を描いているのに、こんなにエネルギーに満ちているというのがこの映画の素晴らしいところです。ばあちゃんが覚醒するというところが、まさに生と死の間を表現しているように思えました。衰えと再生。人生心残りやうまくいかないことも多々ある。それが内向きのパワーになるとサユリになるし、体を動かし外に向けるとばあちゃんのようになる。サユリは過去のことをずっと引きずっていたけど、ばあちゃんは認知症になって過去は忘れて今を力一杯生きようとした。そこが対照的だったと思います。今やりたいことを精一杯やる。そのためには、ちゃんとご飯を食べて、よく寝る。当たり前のようだけど、介護や不登校、引きこもりなど人生が辛い局面にあるときに意外とこれができないんですよね。だから「外をよく、内をよく、命を濃く」というばあちゃんの教えは霊と戦うためだけでなく、不登校、引きこもり状態の子供たちにも言える気がします。認知症のばあちゃんと、引きこもりのサユリという死の側にいる二人から私たちへの生きるためのメッセージをたくさんもらったような作品でした。
最後に付け加えると、下ネタのおまじない「元気ハツラツ〇〇まんまん」の件は、そこから生まれてきて死んでいくみたいな意味でも、今回の映画のテーマにも合っていて理屈には合っているのでしょう。しかし正直、映画館がドン引きしていました。でも、私は監督と同年代の昭和の男子だからわかりますが、昭和の時代はああ言った下品な言葉が漫画などでも飛び交っていました。学校の落書きや公衆トイレなどにいけば、壁一面にそんな言葉ばかり埋め尽くされていた。きっと全国どこでもそうだったと思います。今の若い人には信じられないでしょうが。思春期の自分には下品さと卑猥さ不良性の中にその言葉にある意味生命力も感じていたというのも実感としてあります。だから監督の言わんとするニュアンスは感じ取ることができました。ただあまりにもストレートに言葉で発音されていて、若いお客さんはドン引きするのも当然だと思います。そこは賛否両論あってしかたなんじゃないでしょうか。