良くなる為に修行しない ルアンプー・プラモート師
私達がただ観ていくならば
サティを持って心の世話し
心の状態がどうであれ
世話を出来るようになるのです
心の状態がどうであれ
そのままに観る事が出来るようになるのです
すると
私達は
感覚が変化し続けているということに
出会うのです
目が対象見た時
感覚が変わります
観ることになります
耳に音が触れる
鼻に匂いが触れる
舌に味が触れる
心に思考が触れる
すると心が変化することが判ります
それを観察し続けるのです
「良い状態でなければならない」という必要性はありません
悪い状態であろうが
良い状態であろうが
そうでなければならないということはありません
お坊様先生が以前このように言ったことがあります
「悪行も善行も同じアップリーである」と
アップリーとは(タイ語で下劣の意味)悪い言葉の事ではありません
アップリーとはパーリ語でアピヤ
可愛くない
心配性でないという意味で
どちらも同じことなのです
悪行が生じても
それに惹かれないのです
善行が生じても
それに浸り込まないのです
師はこれほどまでに深く教えたのです
しかしこれは
智慧を高める段階の教えです
道徳の段階での善行と悪行とは違うのです
智慧を高める段階では
私達は善くある為に修習(バワナー)するのではありません
善くあったとしても
それも不変では無いのです
幸せであっても
幸せも不変では無いのです
私達は落ち着き静けさのために修習(バワナー)するのでは
ありません
落ち着きも不変ではないからです
真実を観る為に修習(バワナー)するのです
真実とは
私達の心は常に変化し続けているということ
楽が生じ
苦が生じ
善心(クソン)が生じ
不善心(アクソン)が生じるのです
全て三相(無常・無我・苦)の下に有るのです
仏歴2567年11月24日