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世間に浸り込むことは苦 ルアンプー・プラモート師
毎日、毎日、修習(バワナー)をすると
私達の心は幸せと喜悦(ピーティ)が行き渡るようになります
すると
私達の世間の幸せは偽物だと観えてきて
法の実践により
心が静まり幸せを感じるようになるのです
普段の生活の中で
何もしなくとも
幸せが「ポッ」と生じてくるのです
幸せが
ある瞬間、瞬間に沸き起こってくるのです
何もしなくてもそうなるのです
心にサマーディ(集中)があり
自然と幸せが湧いてくるのです
ですから
瞑想する時も容易にできるのです
なぜならば心は既にリラックスしているからです
生じてくるものに従って
観ていくのです
「幸せ」ということが
法の実践をすることによって
世間の中にある業による幸せは
拠り所に出来るもの何も無いと
はっきりと解るのです
あるのは
それに浸り込み
煩悩を強くすることしか無いのです
世間の幸せは
今まであった善(クソン)は無くなり
新たな善(クソン)は生じず
今まで生じなかった不善(アクソン)が生じ
今まであった不善(アクソン)がより強くなってしまうのです
ですから
私達がもし世間に浸り込んでしまってるのならば
今すぐ目覚めなければなりません
ですから
私達が世間に浸り込んでいくと
善(クソン)は減衰し
不善(アクソン)が高まってしまうのです
そして
私達が得ることになる結果は
苦(ドゥッカ)の世界なのです
ですから
快楽への傾倒(ガーマス・カニカ・ニューヨ)は
私達を苦の世界へ導くのです
しかし
もしも修習(バワナー)し
静けさに楽を感じることができるのならば
世間に浸り込まないのならば
心は少しづつ世間と距離を置いていくのです
世間に関心を持つことからだんだんと遠ざかっていくのです
あたかもそれは
ため池の淵から離れていくようなものです
きれいなな波によって離れていくようなものです
そして
四念処で心の煩悩を燃やしていくのです
ですから
法の実践をするのです
仏歴2568年1月1日
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